癒しがたい存在

[エレミヤ書 17:5,6,7,8,9,10]

  主はこう言われる。
  「人間に信頼する者はのろわれよ。
  肉なる者を自分の腕とし、
  心が主から離れている者は。
  そのような者は荒れ地の灌木。
  幸せが訪れても出会うことはなく、
  焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
  主に信頼する者に祝福があるように。
  その人は主を頼みとする。
  その人は、水のほとりに植えられた木。
  流れのほとりに根を伸ばし、
  暑さが来ても暑さを知らず、
  葉は茂って、
  日照りの年にも心配なく、
  実を結ぶことをやめない。

  人の心は何よりもねじ曲がっている。
  それは癒やしがたい。
  だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
  わたし、主が心を探り、心の奥を試し、
  それぞれその生き方により、
  行いの実にしたがって報いる。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

人間とは何であろうか?
エレミヤ書には、"癒しがたい"存在だと書いてある。イスラエル人たちは、神の律法があり、預言者がいて、奇跡に満ちた歴史がありながら、罪を犯し続けた。
その人の心は、ねじ曲がり、主が癒しがたいほど罪深いのである。
私たちには、私たちがどれほど罪深い人間であるかを認識しようとしなかったり、そもそも認識という概念すらないかもしれない。
罪を犯しても、私たちはその罪を過小評価し、それほど重要でなく、深刻でない反応をする。
これこそが主からみると、癒しがたい心なのだ。
私たちは、まず自身が癒しがたい心の持ち主であることを謙虚に受け止めよう。
自身の罪深さにますます気付く時、主の聖さを痛いほど痛感する。私たちの成長は、自身が癒しがたい心の持ち主であることを受け入れるところから始まるのだ。私たちの柔らかい素直さが神の聖さにますます気付く前提条件である。
主が成してくださった聖なる十字架の御業を過小評価することなく、完全な贖い主であるイエスのうちに憩うことができるように。

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