献身と従順へ

[ローマ人への手紙 2:25,26,27,28,29]

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。
ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。
からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

ローマの人々は、神の律法を聞くだけで律法に沿って行動できていなかった。さらに自分たちが行動できていないにも関わらず、できてない人を裁いていた。
つまり、自分が人を裁きながら、当の本人は言ったことに伴う行いが出来ていなかった。
まさに偽善的であった。パウロはローマにいる教会員にむけて、偽善的行いをやめるよう厳しい表現で手紙を綴っている。
正しい行動よりもただ教えたり話す事のほうがはるかに簡単である。自分にとって挑戦したがたい事柄や都合の良くない事柄を他人に勧めたりら促進するのはやめよう。私たちの行動が私たちのことばと調和するよう神の恵みによって努めたい。
本当のキリスト者とは、割礼などのしるしだけの外面的なものではなく、内面的な特性に基づくものだとパウロは指摘している。
教会に行くことや洗礼を受けること、教会員であることだけでは、必ずしも良いキリスト者ではない。神は私たちの心からの献身と従順を望んでおられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?