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平凡な私がジプシージャズという音楽と出会ってプロを志し、はじめてのギャラを受け取るまで ヤマモトダイキ~過去編~

1992年 福岡県

子供のころ、私はカトリック系の小学校に通っており、聖句の斉唱やシスターによる聖書の朗読が日常の風景だったことを記憶しています。
TVゲームも運動も人並みに好きでしたが、昔からずっと本の虫でした。
個性と言えば、それくらい。
今でも自分の事をそう思いますが、割とどこにでもいるというか、いや違いますね…誤解を恐れずに言えば「どんな属性・組織にも染まれる」タイプの人間だと思います。

「何かを好きになることが好き」です

現在、ステージの上で音楽家としてパフォーマンスしている時も、どこかの一般企業で営業職をやっている自分が「そんな人生もあっただろうな」と、とてもリアルに想像できます。

没頭癖があり、一つの事に興味を持つととことん突き詰める気質はアーティストのそれ、と言えなくはないですが、ほとんどの分野ですぐに「ある程度分かった、もういいや」と途中で別のものに興味が向く、というのが子供の頃の私の常でした。

そんな、多趣味で、誰とでもある程度話を合わせられる私ですが、14歳の頃にジプシージャズという音楽に出会ってからは、以降、人生のほぼすべてのリソースを傾けてこの音楽を追求することになります。

2005年 平凡なギター少年

13歳のころ、私はHUNGRY DAYSという大阪のパンクバンドを聴いたことをきっかけに既にエレキギターを始めていました。
通販サイトで1万円くらいで購入できるような、アンプもシールドも弦もストラップも付いた「エレキギター入門セット」といった感じの商品を、親にねだって買ってもらった記憶があります、今となってはブランド名もモデル名も分からない、オクターブチューニングの合わない青いストラトキャスターでした。
パワーコード中心のキャッチーで力強いリフと、歪んだギターの音のかっこよさ、日本語パンクの前向きでストレートな歌詞、これらに惹かれてギターを始めた、その辺によくいるギターキッズでした。
音楽をやっているというだけで、なんだか自分は周囲の子供とは違って特別な存在なんだという変な自意識も含めて…

Youtubeで音楽を聴き漁る日々

2000年台初頭、当時、既にそれまでとは比べものにならないほど情報化社会というものが進んでいました。
13歳(2005年)でギターを始めた私にとって、学校から帰宅すると家族の共有PCを誰よりも長い時間独占し、本で調べたジャンル名をYoutubeの検索欄に打ち込んで、まだ見ぬ音楽の世界を探求する時間が人生で一番キラキラと輝いていて、生を実感できる瞬間でした。

先述の社会的条件や環境もあり、ロックからブルースへ、ブルースからジャズへ、さらにそこから世界中のあらゆるルーツ音楽へ、という「ギターキッズが還暦を迎えるまでに辿る音楽的変遷」を一年かそこらで一周してしまった私にとって、もう知らないジャンルはなく、退屈すらしていました。(勿論、現実にそんなことはあり得ず、ただ少しだけギターを通じて音楽について知っているだけの、しかもそのことを大いに鼻にかけている生意気な子供でした)

その頃の私は「教則本オタク」でした、HR/HM系のテクニカルロックギターインストのTAB譜や教則本にトライしては動画を撮って「モバゲー」というSNSにアップして反応や交流を楽しんでいました。

そのうちThe White StripesとJack Whiteの(退廃美)ともいえるサウンドやコンセプトにハマり、彼を見習ってサン・ハウスの演奏するデルタ・ブルースを練習したり、ルーツミュージックの世界へ深く傾倒していました。この頃本当に彼に傾倒しており、全てのSNSでのハンドルネームを「ジャック」で統一していた記憶があります。

ジャズギターにも興味が芽生え、Joe Pass、Wes Montgomeryと順当に聴き進めていっていた矢先の出来事でした。

モバゲーだったのか2ちゃんねるだったのか、ともかくネットの掲示版で「かつて2本指で凄い演奏をしたジャンゴ・ラインハルトという天才ギタリストがいた」という話は聞いており、(2本指の天才ギタリスト)という伝説かおとぎ話のようなその話のインパクトだけはずっと頭に残っていて「いつか聴いてみよう」と思っていました。

2006年 ジプシージャズとの邂逅

14歳のある日の事でした、「Django Reinhardt」と検索したのが先か「Gypsy Jazz」と検索したのが先か、とにかく私はジャンゴとグラッペリを中心とした「フランス・ホットクラブ五重奏団」の演奏する「Rose Room」の動画をYoutubeで見つけ、たとえようもないほどの美しさを感じ、感動でしばらく何も手につきませんでした。

擦り切れたレコードの摩擦音の向こうから聞こえてくるポンプの力強いリズム、ジャンゴのダイナミックなアルペジオ、抒情的なヴィブラート、そしてグラッペリの優美かつ鋭角にスウィングするヴァイオリン。
今まで聴いたことのないサウンドでした。
私はその日のうちに現代の主要なジプシージャズギタリスト達の映像を聴き漁り、夜にはソファで寝ようとしていた父の傍らにすがりついてマカフェリギターを買ってほしいとねだっていました。

その時の記憶は断片的ですが、いかにこの音楽が素晴らしいものかを、Angelo Debarreの演奏する「La Gitane」を父に聴かせながら熱弁したことを覚えています。
父の反応は「いいよ、お前はいつもまず形から入るヤツだからな」でした、早く私から解放されたかったのか、それとも私の熱に浮かされた様子に今までにない何かを感じたのか分かりませんが、とにかくこうして私は首尾よく最初のマカフェリギター、GITANE製のDG-250Mを手に入れたのです。

GITANE DG-250M 珍しいマシンヘッドのマカフェリ

それから、私の世界は一変しました。
帰宅すると毎日マカフェリギターでジャンゴや現代のフォロワー達の演奏を耳コピする日々が始まりました。
もうジプシージャズの事しか考えられなくなっていました。

ギターの為に学校をサボりまくる中学時代

通っていた中高一貫校では運動部の子がクラスの上位集団で、彼らは毎日文系をいじめて笑っている、絵に描いたようなクラスカースト制度が固定されていました。
当時の状況になじめなかった私は、まず朝の朝礼に出席し授業を1コマか2コマ受けると学校を抜け出して天神(福岡の中心市街地)へ西鉄バスで向かい、楽器屋を巡って目に留まったギターを試奏したり書店で教則本を立ち読みする毎日でした。
抜き打ちの「荷物検査」に引っかかってしまい、担任の先生が私の鞄の中身をいっぱいにしているギターの教則本や音楽理論に関する本をひとつずつ取り出してタイトルを読み上げ、最後に「クラスで一番大量に勉強に関係ないものを持ち込んでいた大罪人」としてみんなの前で叱責されるということもありました。

誰とも趣味が合わず、いつも一人で行動していました。
とても孤独でしたが、辛いと感じたことはありませんでした。

それどころか「こんな年齢でジプシージャズを(発見)した私はきっと神
が崇高な役割を与えた人物に違いない、そう遠くない将来に早熟な天才音楽家として凄い功績を残すことになるだろう」
と根拠のない自身を深めていくばかりでした。
たった一人で世界の全てと対峙しているような気持ちでした、実はとても寂しくて辛くて、こんな風にヒロイックな考えで自分を鼓舞して精神のバランスを保っていたのかもしれません。
そんな孤独で刹那的な日々を送りながら、エスカレーター式に高校に進学しました。

高卒認定試験を受け、高校退学を計画

当時、音楽に関わる時間以外が全て無意味に思えた私は、学校を辞めようと思いつきます。

「高校を辞めて音楽家として生きていきたい」と親に打ち明けるも、この時点でミュージシャンとしての活動実績はなし。勿論ギターを弾いてお金を稼いだこともありません。
息子が社会経験なしの与太者になることを恐れた両親の猛反対にあいます、当たり前ですね。
次に私はどこからか「高卒認定試験」なる制度を見つけてきて再度両親を説得にかかります。

「高卒認定試験」というのは簡単に言えば「高校卒業程度の学力があることを証明する国家試験」で、文科省が想定しているケースとしては病気など身体的な事情や経済的な事情で高校へ通えなかった人が、大学受験出願などに際し高校卒業程度の学力があることを証明するために受ける試験です。私の年齢はすでに受験資格を満たしており、合格すれば合格証書が貰え、3年後の18歳の誕生日から効力を発揮するというものでした。

家族会議→「あーあ、ヤクザになる」

15歳、高校一年生のある日、家族会議が開かれました、両親の希望は私がまっとうに高校→大学→就職という進路を選ぶこと、私の希望は高卒認定試験を受けて現在通っている高校を辞め、音楽に費やす時間を増やすことでした。

最後には両親を説得することに成功した私ですが、彼らの様子はどちらかというと諦めに近いような雰囲気でした。

今でもありありと思い浮かべることができる父の印象的な台詞があります、何時間にも及ぶ家族会議の末、ついに折れた父親が発した一言は「あーあ、ダイキがヤクザになる」でした。
「売れない音楽家志望なんてみんな犯罪者予備軍みたいなもので、そのうち身を持ち崩してヤクザになる」そういう偏見?から来た言葉なのでしょうが、後から考えると可笑しくって仕方がありません(笑)
父は優しく純朴な人間でした。
そして彼の一番の不幸は、息子がジプシージャズに人生を捧げると決めてしまったことでした(笑)

15歳で親元を離れ神戸へ

高卒認定試験に無事合格した私は、神戸の甲陽音楽学院へ籍を置き、15歳で親元を離れ一人暮らしを始めました。周囲に合わせて関西弁を話すようになり、初めてのアルバイトも経験しました。

ある日、当時神戸を中心に活動していたMon Dieuというバンドのリーダー伊藤淳介さんから、三宮のある店にギターを持って来て欲しい、とメールを貰いました。
伊藤さんと私はすでにジャムセッションで知り合いになっており、当時のやり取りをハッキリと思い出せませんが、「ジプシージャズのスタンダードをいくつかジャムするだけだけだからおいで」というようなものでした。

当日、「お店のステージの上で弾く」ということがほぼ初めてだった私は大いに緊張しながらも、途中からは大好きな音楽をやれる喜びの方が勝り、そこからは流れに身を任せてあっという間に演奏を終えました、終焉後メンバーや関係者から「もっと笑顔で弾いた方がいいよ」とかステージングに関するアドバイスを貰って、最後にハイと茶封筒が手渡されました

17歳、はじめてのギャラでした。
以降私はMon Dieuの2代目リズムギタリストとしてバンドへ加入し、2年間活動を共にすることになります。

当時の私は一応「ジャズギター科」に籍を置いていましたが、10代という年齢とジプシージャズというジャンルもあり音楽学校でも浮いていました、そんな私に活躍の場を与えてくれたMon Dieuの皆さん、特に中心メンバーで今でも交流が続いている伊藤淳介さんと長谷川光さんに感謝しています。

プロ意識を持ってパフォーマンスを行う大人の集団に17歳で加えてもらって、社会勉強そのものでした。

さて、それから2年後、甲陽音楽学院を卒業しただけで音楽で食べていける程世間は甘くなく、その後の身の振り方がわからなくなってしまった私は、再び故郷の福岡へ帰ることにしました。

続く…


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