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世界初の電子情報戦


世界海戦史上類の見ないパーフェクトゲームとなった日本海海戦。

その勝利の要因というと、
日英同盟に基づいて日本に向かう途中のバルチック艦隊への英国の嫌がらせや、東郷平八郎のリーダーっぷり、秋山真介の考案した戦術・戦略にスポットライトが当たりますが、実は日本海海戦は、

世界初の電子情報戦

でもあったのでした。

バルチック艦隊殲滅を図る日本海軍にとってもっとも重要だったのは、バルチック艦隊がどのコースをたどり日本にやって来るかでした。

想定されたコースは

太平洋側から津軽海峡を通るコース

太平洋側から宗谷海峡を通るコース

対馬海峡を通って日本海を進むコース

の3コース。

3つのコースに艦隊を配置して迎え撃つのがベストですが、1セットしか艦隊のない日本海軍は艦隊を分散させることはできません。

なので、敵がどのコースを使ってくるのかをいち早く知り、艦隊を展開させる必要があったのでした。

そして、この時に活躍したのが、秋山真之が三回も上申を繰り返して明治36年(1903年)に採用された

三六式無線電信機

でした。

イタリア人、グリエルモ・マルコーニが無線を発明したのは明治28年(1895年)のこと。

マルコーニの無線実験の成功を新聞で知った英国派遣の新造軍艦回航員や駐英武官から無線の存在を知らされた日本でも明治29年に逓信省(郵便や通信を管轄する中央官庁)・電気試験所長の浅野応輔の命を受けた松代松之助が研究開発に着手しました。

といっても、代国家の建設を目指して先進国に追付こうと諸制度や産業を整えていた時代、今では日曜大工店とかで気軽に入手できる部品や材料も全て自力で調達しなければなりませんでした。

また、資料の入手も、今みたいにネットやFAX、飛行機なく、船便だけが唯一の方法、これだけでも相当な苦労がありました。

そんな中、手に入れた僅か2冊の冊子を頼りに精力的に研究を進め、

明治30年(1897年)11月には月島・金杉沖間1.8kmの交信に成功

次いで明治31年12月には月島・第5台場間3.4kmの実験にも成功を収めました。

マルコニーの発明が公表されてから、2年に満たずしてに独力で追試に成功したのは驚愕すべき出来事だと思います。

この実験結果は「電気学会雑誌」に発表するとともに、新聞社や陸海軍を招いて公開実験を行いました。

そして、この実験を見た海軍は英国に発注していた戦艦「敷島」に英国マルコニー社の無線をつけることを検討していましたが、高額であったので自主開発に方針を変更し、外波内蔵吉少佐を委員長とする無線電信調査委員会を設立させ、松代松之助や第二高等学校教授であり無線技術の研究をしていた木村駿吉を招請して研究開発をはじめました。

松代・木村を中心とする研究活動は着々と成果を上げ、明治34年に150kmの交信能力を持つ三四式無線機の開発に成功しました。

マルコニーの無線通信成功の報を得てから僅か6年での快挙でした。

そして、更なる改良を続け明治36年には370kmの交信能力を備える三六式無線電信機を完成させたのでした。

そして、この無線機には

安中電機製作所(現在のアンリツ電気株式会社)の開発したインダクション・コイル、津製作所の創案による蓄電池といった、民間企業が開発した部品も幾つか使われていました。

この事は、民間企業も技術力に力をつけてきたことを意味します。

この三六式無線電信機は直ちに連合艦隊の艦艇に装備され明治38年には

戦艦・巡洋艦・哨戒艦は100%、海防艦・砲艦は88%、駆逐艦は85%

と世界最高の装備率でした。

(世界最強を呼号した大英帝国海軍でも80%程度)

そして、五島列島・白瀬島西方海域でロシア艦隊を発見した信濃丸が

「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」

と発信し、

その後、対馬海峡に張りめぐらせた日本艦隊の哨戒線に位置する各哨戒艦からルチック艦隊の編成、行動に関する情報があいついで無電で連合艦隊司令部に報告され、いち早くロシア艦隊の位置・動向を知る事ができた日本艦隊は優位の立場を占め、勝利する事ができたのでした。

またロシア側も無線設備は有りましたが、装備率は30%ほどと伝えられ、機材の能力も三六式無線機よりも低く、将兵は操作に熟達していなかったからか、有効に使われることはありませんでした。

この戦いの後、秋山真之は木村技師あての書簡で 次のように記しています

「いかに威力の大きい大砲・魚雷などの兵器を持ち、そして強大な軍艦、かつ高速の軍艦といえども無線機が無くてはその能力を充分に発揮できない。したがってその重要性は・・・・」

無線が発明されてから、僅か8年で、ほとんど独力で世界最先端の無線機を開発し、それを活用した先人たちの努力と先見性には感服すると共に敬意を表したと思います。

と、同時に明治になってからわずか40年足らずで、これを可能にしたのは、やはり、江戸時代から培われてきた教育水準の高さや受け継がれてきた職人の技術の力があったからだと思います。

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参考資料・サイト

05・・・日本無線史の落穂拾い的考察 (1)
http://homepage2.nifty.com/nakagen29/05.htm

連合艦隊の勝因
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6_%E9%80%A3%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%9B%A0
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