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「月」とテレビ

 『月』は読みましたか。そうですか、ええ、津久井やまゆり園の話ですからね。明るくもないし、楽しくもない。できれば忘れてしまいたい出来事なのでしょう。
 被害にあったかたたちの姿が隠されていましたね。健常者だったら、悲しげなBGMとともに生前の笑っている写真やビデオ、さらにはどれだけ素晴らしいひとだったかが、ナレーターやアナウンサーの静かな抑揚とともに朗読されるんですけどね。そうはされませんでした。

 かわりに空虚な、なかみのないおためごかしのような報道が、通り一遍に流れました。いのちのたいせつさや平等。ちきゅうとおなじ重さだとか、存在とはかけがえのないものであり、とりかえのきかないものであるとか。
 でも、そんなおためごかした正論を「嗤う」ものたちが、大手をふるい闊歩する。それがまたいまという時代の側面でもあります。
 「きれいごといってんじゃねえよ」という罵声に、ただただうつむいてしまうしかない。反駁できない。なぜならおためごかしの言説には、自分がふくまれていないからです。そんなことだから尽れて(すがれて)いくばかりなのでしょう。

 辺見庸という作家は、なんにでもなる。大津波にのまれて海原をたゆとう溺死体にもなれば、いままさに天井の板がわれて、そこから首にロープを巻いた人間が落ちてくるのじっと待つ、そんな刑務官にもなるのです。やまゆり園の入所者である「きーちゃん」にもなり、そこで働いていた「さとくん」にもなります。
 そしてなるだけではなく、深く深くその心性の闇に降りていくのです。重度の障がいをかかえた「きーちゃん」の意識と視界の奥底に素潜ると、そこにはいろんな景色があり混沌があります。わけいると、「きーちゃん」の割れ=分身である「あかぎあかえ」もいて、そのすがたにぴたりと身体を合わせながら、犯行を準備する「さとくん」と対話をしたりするのです。
 作家はまた「さとくん」にもなるのです。「さとくん」のことばや意識に細心の注意をむけながら耳をすまします。人倫にもとる大犯罪者。ほんとにそうなのだろうか。「さとくん」はひとの心をもたない冷徹な鬼なのだろうか。ほんとうか。作家は、必死になって「さとくん」のこころにはいりこもうとします。
 これは作家という職業の限界ぎりぎりの行いにほかなりません。物語でもなく、ノンフィクションでもない。散文でもなければ詩でもない。あるいはそれらすべてといってもいいのかもしれません。

 辺見庸はいっかんして「存在の意味」について自問します。「在る」ことには、なんの意味もないと、しぼりだすような声でうめくのです。「在る」ことは「ない」ことと、かぎりなく近似であり相似なのではなかろうかと、思考の最果てで思うのです。
 石原慎太郎という、このひとも作家を名乗っていたりしますが、重度障がい者施設を視察したおりにこういっていましたね。
「ああいうひとっていうのは、人格があるのかね。」と。
 そして、やまゆり園の事件でも加害者に理解をしめすような発言もしています。そんな「嗤う」ひとたちに、おためごかしはなんの効力もありません。せいぜい逆ギレされて終わるのが関の山でしょう。
 「人格のある存在」に意味があって、「人格のない存在」には意味がないという乱暴な言い回しは、そのまま「生産性のある存在」と「生産性のない存在」の意味へと容易にパラフレーズされていくし、これはいかようにでも変容していきます。

 辺見庸もまた重度の障がいを抱えて生きています。この作家の「すべてのひとは障がい者である」ということばに、その存在論の根のようなものを見つけます。存在の意味に捉えられていては、そこに軽重をつける「嗤う」ひとびとの心性へと容易にすべっていきかねない。
 存在の意味、あるいは存在そのものを宙に吊ることからはじめていくことが、遠回りのようにみえていながらも、省くことができない道なのではないでしょうか。

 『月』はもう読みましたか。そうですか、ではテレビはどうですか。明日19日のお昼にEテレビ「こころの時代」の再放送があります。本放送は朝の5時からでしたので、見逃したかたも多いと思います。ひとが見逃す時間に追いやられた番組の、それでも骨太に、根性(こんじょ)良しで制作するスタッフたちの気概に満ちた内容になっています。

 

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