見出し画像

無意味の涙

 参院選を終えて一週間ほど経ったある朝、テレビの報道番組でひとりのジャーナリストがこういった。
「今回の参院選は、ある意味で歴史的な選挙だったわけです。つまり、改憲の発議ができる3分の2の議席数を争うものだった。しかしそのことが、さほど争点にもならず、こうして改憲勢力が勝ったわけなんですが、わたしがすごく奇妙に感じるのは、勝った改憲派は歓声をあげて喜ぶようでもなく、また護憲派もその落胆に深刻さがないということなのです。」
 日本国憲法をめぐる「歴史的な」選挙だったのか。いや、だったはずだ。しかしそこに死闘はなかった。改憲派も護憲派も、そもそも死を賭していたわけではなかった。いつものようにしっかりと逃げ道を用意しながら、三流以下のプロレスごっこを演じてみせたにすぎないのだろう。おそらくその結果よりも、このジャーナリストが感じた「奇妙さ」こそが、目を向けるべき場所なのかもしれない。
 彼はこの憲法をめぐる一世一代の大勝負のあとの、なんとも形容しがたい静かさを「奇妙」だと言ったのだ。本来あるはずの感情の発露やエネルギーの爆発がどこにも見て取れないし、伝わってこない。喜びだとか悲しみといった感情表現や、ときに暴力的にすらなる肉体の躍動やぶつかりあいがない。
 「歴史的な選挙」の看板が、ずるずると落ちると、その向こうにはなにもなく、ひとり広場でたたずんでいる自分自身の姿を見つけて、ひとこと「奇妙だ」とつぶやいたのだ。
 そこには死闘のあとも、観客がいた形跡もなく、ただ茫洋とした荒れ野が続いているばかりだ。この荒れ野、つまり感情のない風景こそが、いくらかいる鋭敏なものたち、たとえばこのジャーナリストのようなひとを怖気立たせる。

 ときに「感情の劣化」といわれたりもする。ぼくはあまり「劣化」ということばは好きではないが、以前よりも、ひとの感情が波打たなくなっていることは、事実なのだと思う。感情のレセプターが開かなくなっているのか、狭まっているのか。いずれあらゆる事象は、スマホを見るためにすこし傾けたあたまの、そのすぐ上を素通りするばかりだ。
 「歴史的な」参議院選挙も通り過ぎていった。吹いた風が髪の毛をほんの少し揺らしたようだが、手元の操作が忙しくて気がつかなかったかもしれない。気がつかないのだから、感情は動かない。知ろうとしないのだから、心も動かない。もはやその動きかたもわからなくなっているとしたら、奇妙だなんて悠長なことをいっている事態ではない。

 ぼくは「津久井やまゆり園」で起きた戦後最悪の大量殺人事件の報を聞きながら、どのようにして自分の感情と向き合ったものかわからずにいた。こうして日々のなかで、心を動かすことを怠ってきた。もしそのはたてに、恐ろしい鬼がやってきたとしても、すでに麻痺してしまった感情は、果たして正常に機能するものだろうかと心配になる。
 ヘイトクライムの不気味さは、そこにあるはずの感情の根拠や実相が見えないことにある。ヘイトは憎悪という感情とは似ても似つかない、裏が透けて見える薄っぺらな逆恨みのようなもので、肉厚な感情や心の立体性は見つけられない。その徹底的に根拠を欠いた無感情の人間が、感情を動かさないままに大量殺人を起こした。
 ただ、もっと恐ろしいのは、その悲劇と惨状を目の当たりにしながらも、ぼくたちはスマホを操作する手をとめて、顔をあげようとはしないし、感情も波打たないということだ。

 その夜遅く、ぼくは民主党大会でのバーニー・サンダースの演説を、惚けたように聞いていた。なぜだか涙がポロポロでてきた。感情の均衡がずいぶんと傾いているのかもしれない。かつて川本二郎は、その内田百閒論のなかで、「無意味の涙」ということばを使った。
 喜怒哀楽とは無関係の、意味のない涙。夢のなかで、土手に立って、ただひたすらに涙を流している百閒の姿を思い描く。ぼくの頬を流れたのは、そんな涙だったのかもしれない。
 
 もはや歴史的な選挙も歴史的な殺人事件も、ぼくたちの感情を動かさないのであるならば、ひょっとすると、崩壊の準備はできたのかもしれない。合図のように、パチンとなにかが弾ける音がして顔をあげると、静寂さに包まれた荒れ野に、大きな鬼が立っていたとしても、それはもう奇妙な光景ではないだろう。
 終わりにあたって、ひとすじの無意味の涙が流れるかどうか。それだけが気にかかる。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?