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偶像の効用としてのカミングアウト①

仮定と仮説をしてみる。人類の持ちうる「思想」みたいなものを一箇所に集めることができるとすれば、そこは「矛盾」がない理想郷になりうるのだろうか。A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…、と全ての思想を列挙しつくし、それを解体した後に組み替えなおして成立する全体像は、人類の偶像となり得るのかどうか。

図1.思想群をまとめ上げる「偶像的全体」
図2.《交差点》と同質性のある自己と他者の簡略図

1,可能と志向する場合

1、「偶像的全体」を見ようと欲求することに関して

図1で示す「偶像的全体」の存在が可能であると仮定する。その存在以前の世界に雑多にあったA思想、B思想…AA’思想、BB’思想…が解体され、その後に理路整然と構築された何かが存在することになる。それを仮に「偶像的全体」と呼称しよう。ここでは「偶像的全体」が唯一の絶対となる。その存在は「偶像」の信仰心を亢進させる。「偶像的全体」には力があり、そこから発生する力は、当本人が無意識に見る1つの欲望をくすぐる。「偶像的全体」の力と欲望の力の2つがせめぎ合う。唯一の絶対としての「偶像的全体」は誰かの欲望によって作用されない。かつ、「偶像的全体」は受動的に存在し得ない。「偶像的全体」は自作自演に関わる受動のみ許容する。つまり、「偶像的全体」の構築は、その力そのものによって原初の欲望自体が視認不可能な場、「偶像的全体」の欲望の力への破壊的能動が働く場によって成される。「偶像的全体」は見えるものだから見てるのではなく見たいから見ているのであり、見ざるを得ないものなのだ。すると、「偶像的全体」は当本人との関係を切り離して存在することはできないということになる。つまり、視認する誰かが必要になる。「偶像的全体」は視認する誰かの心的バイアスに寄りかからなくてはならない。そのバイアスはフェチ的である。よって、「偶像的全体」は観測する当本人によって欺かれている限りは見ることができない。見えないことで、存在が許容されている。各々の欲望は見えているものを純粋に見せてはくれない。以上を踏まえなければ、人々は「偶像的全体」の存在を自己の外側にあるものだと勘違いを犯すに至る。この勘違いは「偶像的全体」がどこかに存在するものであるという発想を生む。

2、自己の欲求による思想自体の観測に関して

全ての思想を解体する作業は多忙を極めるだろう。思想とは長年培われてきた「言語」を伴うので、その言語自体の意味とその言語の文脈的/歴史的意味とを、区別して再度書き換えなければならない。言語を書き換える際には、更なる言語が必要になり、その言語の使用を1個人以上の複数人で観測し、その観測状況と観測結果を記述し、再現性を担保しなければならない。続けて、更なる観測者による「第三者機関」を準備し、正当な依頼をしなければならない。この「記述」は止まる所を知らない。言語の説明を言語で行い、その言語の説明を別の言語で行う…無限再帰的な道筋を辿る。仮に、思想を「解体し尽くせた」とする。その次に、命題の解体物(言葉、文節、文章など)を組み立てる。「言語」などの解体や構築が、さらなる「言語」を基盤として行われており、その「言語」が基盤となった当時の状況の「記述」背景を確認しながら「言語」を読み解き、その思想パーツを組み立てる必要がある。この作業を、1個人以上による「言語」の観察や監視を行いながら、それを担保にしつつ「思想」を構築していく…。全人類でこの作業を行い、ある人はある人を観察し、更には観察されながら、無限の円環の中でこの作業を行うことで「偶像的全体」としての思想が完成する。しかしながら、この作業は「ただ1つの思想」つまり「偶像的全体」の構築を不可能にしている。上述した「1個人以上による言語の観察や監視」は矛盾のないもの(無矛盾)の帰結を欲望しているからこその行為なのであり、それから逃れることはできないからだ。無矛盾を欲望することとは、逆説的にあまたの思想群にある矛盾の存在を認めていることになる。欲望の力は「ただ1つの思想」つまり「偶像的全体」の破壊的能動によって死ななければならない。つまり、無矛盾の欲望はその欲望自体で編み出された「偶像的全体」に殺されなけれならないのだ。よって、全人類に通ずる思想である「ただ1つの思想」、「偶像的全体」の完全構築を達成することはできない。再度書き記すが、個人の概念や欲望は、見えているものを純粋に見せてはくれない。「言語」という環境下では、1個人での「思想」の醸成は、1つの統一的「偶像的全体」にはなり得ない。だからこそ、1個人以上での、または全人類での「偶像」または「思想」の練り上げがそれを可能にすると考えさせられるのだが、それが逆の効果を生んでしまう、ということなのである。1個人は1人の「人間」であるが故に、収斂しない欲望を保持する。その欲望は様々な動静を描く。なぜならば、もともと雑多に存在していた思想を保持していたのは人間自体であり、その事実がそれを説明する材料になるからである。「偶像的全体」を可能であると志向するに至るためには、もともと雑多に存在している「思想」に対して正式な認可を下さなければならない。「思想」は「欲望」と言い換えられる。そしてその「欲望」が「言語」を伴って存在しているので、「偶像的全体」を実際に見ることは空気を見ることよりも困難なこととなる。よって、「偶像的全体」の構築を可能にするには【理路整然な「思想」「欲望」】を前提とした人間的社会の成立によってである。ようするに、A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…のように雑多に存在している「思想」をもとに矛盾のないユートピア的偶像を構築するためには、それらを誰の「許可もなく」すべて排除し、完全に消し去り、2次元としての「何もない平面」を構築して初めて可能になるといえるだろう。つまり、「矛盾」のない世界の構築には、その「矛盾」のない世界が必要であると感じさせる元凶的課題(A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…のいざこざ)を、すべて無に帰することが条件であり、それにより不可能性の証明になるのだ。例えば、世界の平和を祈念する行為は、平和を危険に晒す悪が存在していることが第一の前提となる。そしてその悪の構成要因は多種多様に及ぶ。ゆえに、いろいろな思想が存在することで平和が訪れないことへの危機感を、この行為する本人は持っている。平和が存在するためには、平和を窮地に追いやる事態が存在していなければならない。その逆も然りである。つまり、平和と悪は切り離せない。そのため、平和を祈念する行為は、悪を祈念する行為と同等である。表面的には異なるように見える2つの事態が、根本的にはつながっており、そのつながりが無ければ平和も悪も存在し得ないのだ。つまり、平和を祈念する気持ちを完全に排除、消去しない限り、悪も消えない。そして、「矛盾」のない全体(世界)は構築できないことを意味する。全ての思想や気持ちが均されてない限り、だ。そして、それこそが「矛盾」ではないだろうか。そこには、徹底的に交通整備された「思想」「欲望」しか存在してはならないのだから…。「偶像的全体」を構築するには「偶像的全体」によって全て排除されなければならない。その排除は、人間の無矛盾の欲望が萌芽する前に、破壊的に行われる。

見えない欲望対象とそれに必要とされる虚無的な欲望

これを構築可能とするのは、前提として全人類は「思想」してはならないということであり、「欲望」してはならないということである。平和のために悪を駆逐することを願ってはいけない。悪が居る事実が平和の存在を担保する。その存在同士は本質的に繋がっており、どちらかを完全になくすことは不可能だ。悪を消したいのであれば、平和も消さなければいけない。悪という思想、平和という思想の2つは、完全に皆無になるか、混ざり合うかのほかに存在様式が用意されていないのだ。このような「無(皆無/混ざり合い)で均された地平」が「偶像的全体」の構築に必須である。「思想」のパーツ群を用いて全体性のあるものを構築しようとすると、とあるフェチ的な「欲望」が加わってしまう。そのフェチ的欲望なやより規範や規定が確立されたのちに「偶像的全体」の存在が許容される。それは、真の「偶像的全体」ではありえない。

2、不可能と志向する場合

1「可能と志向する場合」の帰結には、「無に均された地平」という前提条件があった。そして、不可能と志向するためにはまず可能であると志向しなければならない。可能へと試行を繰り返す中で不可能を悟るに至るからだ。ほとんど不可能であると思われることであっても、可能である性質はゼロではないからである。つまり、まず我々は「無に均された地平」に存在することを前提にしながらも、その可能の志向から不可能の志向へと移り行くのだ。それを踏まえると、「偶像的全体」の構築の不可能性に直面する際、そこにA思想、B思想…AA’思想、BB’思想…は実在していたのだという了解を得ることになる。ということは、「偶像的全体」の構築不可能性に直面する限りにおいて、その雑多な思想群の存在を実感するということになる。しかし、これはおかしな話だ。雑多な思想群が1箇所に集合すれば矛盾の生じない理想郷になるのではないかと想像したはずであるのに、その想像が全て無かったことにならなければならないのだ。前もって思想群を認知しているからこその想像であるのに、その組み換えや変形による再構築不可能性を直面しなければ、思想群を実感することに繋がらないという、決定的な矛盾がある。これが示すのは、A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…という思想を見る私自身において、その思想群はとある「言語」環境という色眼鏡によって脚色/解釈した1つの正当/不当な結果を反映したものでしかなかったのだということである。そもそも、A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…なんてものは、最初から存在していなかった。いや、確かに存在しているのであるが、それは厳密に1つの点として集合できないような思想群であったという事実を、私自身が観測できていなかったということである。不可能性に正しく直面した後、「偶像的全体」を別の場所に求めざるを得なくなる。つまり、一度不可能であると志向した者の帰着点である。それは、「私」という存在において問い質されることになる。世界の雑多な思想群を「無に均す」こともできないし、その不可能性にぶつかってもなおその雑多な思想群を意識的に無視しなければならない。立ち止まることを強いられる私。「私」?今これを思考している「私」とはいったい何者なのだ…という具合だ。「私」のA思想、B思想…AA’思想、BB’思想…の思想群を解釈する「認知装置」がいったいどのような構造になっているであろうかという疑問のことである。自己の「言語」が構築されてきた推移や変化を、自己の記憶のみで再現することは端的に言って不可能である。不可能であると認めたほうが誠実だ。よって、私自身の「認識装置」の構造を把握しようとする試みは、1「可能である」で見たようなフェティッシュな「偶像的全体」を妄想するよりもさらに困難であると思われる。「認識装置」の構造を把握するためには、その「認識装置」を絶対的なものとするような「認識装置」からの解放がまず必要であるからだ。「認識装置」は「言語」に依存し、その周囲の環境に依存しながら存在している。それゆえに、その「認識装置」は自身にとって無意識的に絶対的なものとしてそこに佇んでいる。絶対的なものとしての「認識装置」を解放してやるためには、多くの他者の「認識装置」を観察し、相対化を図らなければならない。しかし、その相対化は同時多発的に行われる相対化の波に捕らわれることになる。多く(全人類)の個人が、「偶像的全体」をあきらめた瞬間、各々の「認識装置」の相対化が同時に無限に相互に行われるからである。「認識装置」自体には、いつどこで誰に相対されたかどうかという記録はもちろん残ることは無い。そして、それによって受けた影響がどの程度であったかということも推し量ることはできない。自己の「認識装置」においても、他者の「認識装置」においても同様である。相互に影響を与えうる相対化の波によって、「認識装置」の本来の機能、〈私自体の認知〉の機能が、正常に作動しなくなるということに繋がる。

これによって、固有性のある私を明瞭にする「認識装置」の存在の可視化を諦めてしまうことに繋がるかもしれない。しかし、この「諦め」は開き直りに近いのだ。再度記述してみる。「思想」や「欲望」といった「偶像的全体」を志向することもなく、それがほとんど不可能であることが分かった個人は、「私」が一体何であるのかを思考するようになる。しかし、「認識装置」の相対化が止めどなく実行され続けている状況なので、「私」に関する思考は混迷を極めるだけである。諦めることに繋がれば、自己の存在をニヒリスティックに捉え直しながらそのような存在であるしかない「私」として規定することで、「私」は落ち着くことになるのだ。不可能であると志向するに至る個人は、ニヒルになる。ニヒルの地平で思想は再度観測される。

「偶像的全体」とは

1:《無で均された地平》で「可能である」と分かるが「地平」は全く見えない
2:「不可能である」と諦め《虚無的な私》にたどり着くので「私」は全く見えない

構築の可能/不可能に関わらず、その実態は不可視化される。可能であると志向し続ける個人は雑多な思想群が「無で均された地平」に存在していることを認知させられ、かつ、真なる地平を観測することはできなくなる。その後に、不可能であると志向する個人は「私」を問い質すに至り「私」を多分に喪失してしまっている。つまり、人々の「思想」、多様な文化的背景を持った人間を一纏めにする場所は「ある」と「ない」の狭間に存在している。「偶像的全体」の構築は一瞬「可能」を装うが、「不可能」が不可視化されているだけに過ぎない。思想群が「無に均された地平」に無機質に整列され後々に「可能」が見えなくなること、「私」が不在になることで「不可能」が「可能」を装って見えなくなることによって。1と2の主題は循環している。そのことを現実の具体例によって次に説明する。

ラーメンが好きな人と嫌いな人

ラーメンが好きな人がいる。ラーメンが嫌いな人がいる。お互いに好きや嫌いに関することを議論し合うとき、その両者には「好き」「嫌い」にひれ伏させたいという欲求がある。「好き」「嫌い」を形成する何か自体の存在があり、その何かは誰かの思考を徹底的に均そうと試みるのだ。その試みは自己の信念の肯定から生まれるものである。しかし、お互いにその信念を完璧な形で譲ることはない。信念には具体的な意味はないからだ。直感的信念を自己否定できるほど人間は優れていないだろう。よって、「好き」「嫌い」の議論は平行線を辿る。つまり、「好き」「嫌い」を形成する何か自体に思想を無に均すような力が存在していないのだ。このようにして、議論(偶像的全体の構築は可能であると思考する時間)は、議論の平行線に直面することで不可能に至る。そこから、人の中に何かの全体性を求める欲求の萌芽を観測できるようになる。全ての事柄(全ての直感)には明確な意味を求めなくてはならないと思考するのだ。その思考こそ「偶像的全体」の幻想へと誘う元凶になりうる。しかしながら、その誘いはすでに「好き」「嫌い」の議論の平行線の経験によって不可能であると理解しているはずなのである。全体性を求める思考は経験に矛盾している。可能であることを欲求しながら不可能を経験してきたのに、全体性の罠によって私は矛盾してしまうのだ。まとめると、ラーメンが好きな人と嫌いな人は「好き」「嫌い」の議論の平行線によって区分可能な思想を確認し合い、そしてその区分可能性によってお互いの思想を折衷し認め(ラーメン好きの立場なら)その「好き」という直感を全体性でもって説明する試みを行うのちに自己矛盾へ陥るのだ。そのときに「好き」と思う「私」自身に関わる問題へとスライドしていく。「好き」と思う「私」は何故「好き」と思うに至らざるを得ないのだろうかと自問自答をするのだ。「私」のなかに「ラーメンが好きだ」という直感を断定させるような「認識」があるに違いない、と。「私」を理解するために「認識」を理解しようと欲求し始めるのだ。しかしながら、その「認識」はラーメンが「好き」「嫌い」の直感とさほど違いがない。思考や物事は、そういった「認識」から表出するものであるのならば、もはやその「好き」「嫌い」がその「認識」を表しているからだ。「認識」を細分化してみても、「スープが好き」「チャーシューが美味しい」「麺がうまい」…となるためであり、その「認識」の「認識」の理解が必要になる。「好き」「嫌い」の認識には、再度「好き」「嫌い」が関わり、その認識にも「好き」「嫌い」が関わるからだ。つまり、「好き」の認識を理解するためには「嫌い」の視座が必須である。「好き」の「認識」を理解したいという欲求のために、「好き」の視座のみで「認識」を解きほぐそうとしてはならないのだ。ゆえに、根源的な「認識」の中にはラーメンが「好き」だけが含まれているのではなく、その根源さゆえに「ラーメンが嫌い」も含まれていなくてはならないことになる。つまり根源さの担保はそれである。しかしこのラーメン好きにはラーメンが「嫌い」という思想を理解できないことを議論の平行線で経験しているのだ。このようにして再度矛盾に至る。しかしながら、矛盾に至らない道もある。それは、ラーメン「好き」がラーメン「嫌い」という立場を同時に持つことにある。これによって「認識」の根源の問題は解消される。しかしそれは無理なのだった。「直感」や「認識」をやすやすと自己否定することはできないし、そのような態度は前述したような全体性を欲求する行為と同じだからだ。このように、人は【全体性】と【認識】に踊らされることになる。踊らせているのは【偶像的全体】の効用によるものであるのだ。

多様さと踊る

人間は、思想や思考に対して全体性を求めた瞬間、そこには強い志向性があることを認知できない。自由に追究する姿勢は不自由である、ということだ。その全体性を求める行為そのものは、思想や思考を「区別可能」と考える自己を見逃すことはない。なぜならば、全体は部分からなるからだ。全体性を求める行為はつまり、部分を統御するということであり、部分を区別可能にするなにかを無意識に認めている。しかし、その思想や思考を区別する「私」自体の構造を、私自身が理解することは困難であり不可能である。その不可能性は、自己と他者の相対的な配置により、カオス的に展開されるからである。そして、「偶像的全体」が【仮に】完成するのである。私自身は、その「偶像的全体」の完成を数多に迎えいれているけれども、その完成を認知することは決してない。「無で均された地平」には、直線的「思想」「欲望」しか存在することができない。「無」が意味するところは、「無」という意味の不在によっても語られる。「無」の状態についても「解釈装置」から逃れることはできないからだ。要するに、「解釈装置」が無い地平には、「偶像的全体」は存在しうる。また、その「解釈装置」が無いという事実は、恣意的にまたは別の「解釈装置」によって不可視化されるということである。これによって「無に均された地平」が構築され「偶像的全体」が存在する(と錯覚する)。つまり、動物的人間によってもたらされる思想群には「解釈装置」が媒介しないので「偶像的全体」は存在しうるのだ。動物界にはきっと「偶像的全体」が存在しうるのだろう。また、「偶像的全体」は「規定性を保持した解釈装置」であるとも言える。この不可視化された「解釈装置」による規定性のある事柄こそが、人による恣意的・偶然的な信仰対象となっているのだ。「解釈装置」の無限的な入れ子状構造が人の諦めを誘い【仮の】【無様な】「偶像的全体」をとりあえず構築させてしまう。その「偶像的全体」はそれを装いながら存在する「解釈装置」である。つまり、一人一人に存在している色眼鏡である。これに対する信仰心は、当本人から「信仰心」自体を奪い去っているのは間違いがないといえるだろう。特定の「解釈装置」または「規定性のある事柄」への信仰を、自分の内側に無垢に在るはずだと思い込んでしまうのだ。その「特定の信仰」は、「信仰心」自体を貪食する性質がある。私自身の本来あるべき(なのかもしれない)「信仰心」自体を、その「特定の信仰」によって不可視化されているのである。また、「個人が不在(個人が不可視化されている)」であることによる「偶像的全体」の存在可能性については、現在の「多様化ブーム」によっても説明がある程度可能である。「多様化」が受容されるということは「多様になり得る存在」が増殖している結果である。それは「無に均された地平」における《不可視化された「解釈装置」の不在性》によるものであるが、その功利作用は視認されえない。不可視化されている「解釈装置」は不可視化されていることによる認知困難性が事実としてあるだけであり、たしかに存在はしているからである。ようするに、「多様化ブーム」という現象自体は、《不可視化された「解釈装置」の不在》が存在しなければ、その存在自体に耐えることはできない。つまり、裏には縦横無尽に全ての事実をコントロールする《不可視化された「解釈装置」》が存在しているのである。さまざまな事実に対し、常に疑義を呈することが可能になる。しかし、《「解釈装置」は不在である》と人々は、なんとなく/確信をもちながら、無意識的/規範的に思考するのである。多様化は「私」が不在になった者たちの助け舟的な概念である。船員になった私たちはその船を沈没させるわけにはいかない。つまり、「解釈装置」がどこかに存在していて私たちを操っているのだという思考のいとまを許さないのだ。よって、「解釈装置」があることに疑義をもちながら「私」自体を問い質す者はほとんどいないであろう。問い質し始めると、再び不可解な「私」の問題に直面することになる。「私」は分からないのだから、ただ「多様化」の海に漂っていれば万事安全なのだ。つまり、《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在が成立するということは、疑義の表出を抑え込む作用があり、その存在がその〈疑義自体〉を徹底的に消滅させるのだ。安易な「多様化」とは、一種の「諦め」である。どのような存在にもなり得る個人が「多様化」の端緒であるとしてそのまま受け止めさえすれば即座に《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在によって、その思想がとことん肯定されるのである。それは、自己の存在をニヒリスティックにまたはフェティッシュに捉え直すことに繋がっていく。前者の場合、「解釈装置」の存在を《殺す》ことであり、「個人の不在(個人の不可視化)」という現象に加担することで、《不可視化された「解釈装置」の不在性》に対する根拠の言説を強化することになる。また後者の場合、「フェチ」の領域から脱することは決してできず、同様に《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在を強化し加速させる作用がある。これはつまり、「偶像的全体」の構築不可能性を示す根拠であり、それは「諦め」であり、かつ「多様化」を、それっぽいものであると肯定する材料にもなりうるのだ。「多様である」というのは、多様のためにまず多様ではない基盤が必要である。多様的な存在になるためには、まず多様であってはならない。多様という思想は、結果論であってはいけない。結果から多様という思想を弁護人として援用してはいけないのだ。それはどのような思想においても理想とされるべきである。しかし、その理想の不可能性は殆ど100%に近いというのはなんという皮肉であろうか。そんな「多様性」は、「無に均された地平」において、準備が完了される。そのために《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在が必要になる。雑多な思想群や雑多な人間を直線的に均す概念が必要なのだ。そこから「多様化」をはじめなければいけない。しかし、これは【仮の】【無様な】「偶像的全体」にほかならず、その「偶像的全体」は可能から不可能へ移行を免れることはできない。可能だったものが不可能であると悟った時、その問題は再び「私」自体に帰ってくる。そして、ふたたび「私」の「解釈装置」の問題に再帰して、「無に均された地平」に戻ってくるのだ。おかしな「偶像的全体」を軸に、多様さとの終わりないダンスをしているようである。固有性のある私を明瞭にするための「認識装置」の存在の可視化を諦める(させる)ことに繋がりうる。しかし、この「諦め」は開き直りだ。「思想」や「欲望」といった「偶像的全体」を志向することもなく、それがほとんど不可能であることが分かれば、「私」が一体何であるのかを思考するようになる。しかし、結局は「認識装置」の相対化が止めど無く行われることでそれが不明瞭になり、のちに自己の存在をニヒリスティックに捉え直し、更にそのような存在であると規定することで、〈私の実存〉は落ち着くことになってしまうのだ。しかしながら、「多様化」を「諦め」として肯定する行為こそ、ニヒリスティックであり、フェティッシュな思想であるかもしれない。そして人は「多様さ」の探求のために〈特徴的なアイデンティティの希求〉へと向かう。つまり、「私とはだれか」「世界とは何か」と問うことがそれの端緒であるが、その端緒こそとある全体性を志向することに繋がってしまう。統一的な答えを得たくて亡霊のように彷徨っているのだ。しかしながら、その彷徨いの中で《偶像的全体》にたどり着くことは決して無い。なぜならば、そもそも「私とはだれか」「世界とは何か」という《多様に回答が存在する問い》に統一的な何かを志向する私自身の存在が、そのようにさせているからだ。「私」の不在における「多様さ」に基づいた思想や「解釈装置」によって、私自身や世界全体における〈原理的なもの〉ついては、それは実に多様であるという実感のもとで投げ掛けられない限り、ニヒリスティックに、またはフェティッシュに存在するしかない。どう考えてもここには「矛盾」しか生まれない。この思想のもとに存在する「多様さ」とは、実に貧弱な多様性である。「無で均された地平」で「私」によって思考される「私とはなにか」という問い(あるいは思想)について熟考することというのは、何ら実質的な回答を生むことは無いのではないだろうか。だからといって、「多様化」を諦める行為についても、何ら実質的な回答を生むことは無い。「多様さ」を諦める行為が拡大され、それが「解釈装置」となってしまったらそれ自体が【仮の】【無様な】「偶像的全体」になり得てしまう。ここには、「解釈のパラドックス」が存在している。「偶像的全体」の志向が「解釈装置」によって為されるように進むべきであるのに、その「偶像的全体」の本質的な構築の不可能性に直面することによって、結果として「解釈」が広範に行き渡り、二次の《偶像的全体》の「解釈装置」が確固たる「機械」として多くの人々の内側に規則正しく配置されることになる。ここでいう、二次の「偶像的全体」とは、人類による無限とも言える相対化によって生み出された、オリジナルが不在の「解釈装置」のことである。何かを「解釈」しないと、所在不明の「解釈」があちこちに産み落とされ、それがカオス的に独り歩きするしかなくなる。しかし、その「解釈」を解釈する「解釈装置」が、本質的なものであるのか、それとも《不可視化されて不在である》ように存在するものであるのか、それを判断するのは至難の業であり、ほとんど不可能なのではないだろうか。けれども、このような構造から目をそらすこと自体によって、不本意な「解釈」を解釈する「解釈装置」が拡大していくのであるならば、それは阻止しなければならない。

偶像的全体と多様さと分断の循環性

多くの思想(宗教、思想、哲学、その他の個々人による思考など)について、それらをすべてまとめ上げ「偶像的全体」を構築することは、「不可能」であることを不可視化することによってのみ可能である。「偶像的全体」とは、それ自体の構築不可能性が〈不可視化〉されることで、初めて存在しうる。ありもしないディストピア的「偶像的全体」の存在形式の基盤は、存在の地平が《無》で均されていたり《個人の不在性》によって不可視化されていたり、それらを伴いながら担保される。「偶像的全体」は、それは《不可視化された「解釈装置」の不在性》が存在しなければ、その存在自体に耐えることはできない。よって、見えていないものは人々の規定性のある想定によってなされうるのであり、その実態は全く見えていないのである。無根拠を根拠に据えた虚構の「偶像的全体」、これを保持しないものは誰一人としていないということも分かるだろう。自己は、自己のみで存在し得ない。自己は、物質的な相対化によって自己を認知するに至るからだ。人々は事実の入れ子状になった世界において、その螺旋構造から逃れることは絶対にできない。そののちに、全ての事実が不可視化されている世界において、人は、自己に関した〈絶対的な何か〉を志向し始める。いわば、「私とはだれか」と問うことである。〈個人の不在性〉による「多様な自己」への欲求は、高まっていくばかりである。「多様な自己」とは、いわば「多様性」の一種である。この欲求の高まりは、当然の現象として観測される。なぜならば、「偶像的全体」は不可視化されながら存在し、かつ「偶像的全体」が存在するためには〈個人の不在性〉に依拠しなくてはならないからだ。もはや、頼れる「兄」は存在していない。「兄」という信頼のある「大きなもの」を見出せない状況が常態化しているのである。よって、信頼のある「大きなもの」としての「多様な自己」を模索し始めるに至るのだ。しかしながら、「多様な自己」をいくら志向しても、その「多様性」は、自己における統一的な志向によってのみなされるしかないという矛盾をはらんでいる。例えば、「多様な自己」の在処を、Aというドメインを参考に模索し始めたとしよう。(Aの内容は何でもよい。例えば、会社であったり、趣味の合うコミュニティであったり、オンライン読書会であったり、スポーツクラブであったり、何でもよい。)Aという場所は「多様さのある自己」に至るための十分条件にはなり得ない。なぜならば、自己の構成要素とは、それ自体がすでに「多様性」にある種囚われているからである。となれば、「多様な自己」を模索する行為とはつまり「多様性」を放棄することに繋がりうる。「Aという場所における知識や事実を吸収することで、様々な視野を獲得することが出来、それが『多様な自己』になるための一歩となる。」これはあり得ない。なぜならば、「知識や事実を吸収すること」は「多様な自己」の要件ではないからだ。知識が「多様さ」を語ることはないし、事実も「多様さ」を語ることは決してない。知識や事実はただ存在している、それだけなのである。恣意的に選ばれたAというドメインでの知識や事実を得ることによって、逆に「多様さのある自己」から遠ざかるのだ。知識や事実をAというドメインで吸入しつくしたとしても、それで『様々な視野』を獲得できるはずがない。Aドメインの知識や事実が、常に自己の「偶像的全体」に関与し、その『Aドメイン関与の偶像的全体』が不完全に構築されるのだ。のちに自己にかかわる事実や現象について、その「Aドメイン関与の偶像的全体」を通した安易で不用心な理解が促進されていく。「多様な自己」を志向するあまり、〈絶対的な何か〉への志向へスライドし、その結果、何かしらの体系をなした「偶像的全体」に再帰してしまう。さらに、その再帰先の「偶像的全体」はもちろん本質的な構築可能性はゼロなのである。では、その後「偶像的全体」に関わる自己の動静はどのように推移していくのか。再度、信頼のある「大きなもの」、つまり「偶像的全体」を見失うことになり、「多様さのある自己」を模索し始め、自己の中に統一的なものを志向することで、さらに以前とは別の様相を見せる「偶像的全体」へ、再-再帰していくのだ。以下、無限回帰的にこれは繰り返される。以上を、以下のように簡潔にまとめることができる。

「偶像的全体」>……>「1次志向的偶像的全体」>「2次志向的偶像的全体」>……>「n次志向的偶像的全体」>……

もしくは、例で取り上げた、Aドメインの関与を組み入れてみると、以下の通りとなるだろう。

「n次志向的偶像的全体」>……>「Aドメイン関与の偶像的全体」>……>「m次志向的偶像的全体」>……

初めに関わる「偶像的全体」とは、つねに「(n次志向的)偶像的全体」という、括弧が隠されている。簡略的に「偶像的全体」を記したが、その「偶像的全体」は常に他へ影響を与え影響を与えられているため、真の初手の「偶像的全体」は存在を追認できない。それは「偶像的全体」は不可能であると志向し始めると「私」に関わる問題へとたどり着き、「私」の「解釈装置」は他の「解釈装置」と相対され存在しうることをすでに述べた。すべての「偶像的全体」の存在は追認できない。私自身が述べている『「偶像的全体」の存在は、それ自体の不可視化によって、存在が許容されうる。という命題を、以上に述べた論理のもとに保証している。上記した「偶像的全体」に関わる簡略形式において、その形式が右方向へ進むにつれて「偶像的全体」は縮小に向かっていく。これに関しては、Aドメインの例で説明した通りである。「多様性」を求めれば求めるほど何かしらのドメインに深く関与する志向性を否応なく保有しうることにより、自己の「偶像的全体」は縮小することに帰結し自己のドメインも縮小していくため「多様な自己」を得ることは達成されることは無いのだ。「多様さ」は不可視的な存在である「偶像的全体」によって見せられている〈幻想〉のようだ。その〈幻想〉は強固かつ貧相な多様性へと向かわせる形式がありその形式が上記の「偶像的全体」の簡略形式に示されている。つまりは「多様さ」を共有知に向かわせれば向かわせるほど、「多様さ」を元にした《分断》が起こるのだろう。ドメインが縮小している「偶像的全体」を保持した個人が増殖すればその分雑多な思想群は減少する。全ての人類は「無」に近似した平面で存在を認識し合うことになる。それにより、思想自体やその思想による分断は限りなく少なくなるだろうという予測もできる。しかし、「多様さ」を求める個人が減らないことにはその思想群は減少しても力を保持する思想群は生き残ることになる。それらの思想同士は力関係を意識し合う。そして、その意識は闘争へと発展する。その闘争は分断を生みうる。A思想を保持する個人同士であっても、そのなかで「偶像的全体」の幻想は働いている。なので、思想同士だけではなく思想内の分断も考慮されなければならない。「偶像的全体」は私に不可能と志向されることで瞬く間に「私」自身への働きかけに姿を変えるが、その問題の困難さに根を上げて後々「多様さ」にすがるようになる。「多様さ」にすがると私は縮小し【仮の】【無様な】「偶像的全体」を構築しとある思想に加担することになる。その思想と別の思想(もしくは思想内)との闘争で思想同士や思想自体は分断される。その分断は避けることはできない。そのため、その分断が再度数多な思想を構築することに繋がるのだ。全ては循環している。

「多様である」とは何か

記した通り、「多様な自己」を希求することは自己ドメインの縮小を招く。「多様な自己」、分かりやすく言い換えてみれば、「汎用的な自己」についてはそれを無意識に志向し続けることでそれ自体を叶えることは決してできなくなる。「多様な自己」への希求が素朴であればあるほどその縮小度合いは増加していくのであり、それはある志向性を保有した「n次志向的偶像的全体」へと縮小変化していくのだ。それでは、そもそも「多様である」ことというのはいったい何を示し得るのであろう。「多様さのある自己」とはそもそもどのような存在であるのだろうか。前述した通り、「多様であるのが自己であるできだ。」という命題は偽である。なぜならば、自己であるということが多様でなければならない理由は無いからだ。とある自己が可塑性のある多様な存在である可能性はもちろんあり得る。しかし、その自己においても「可塑性のある多様な自己」という自己規定が自己に関したすべてを語ることはできない。事実として、いかようにも変貌できる可塑的自己が確かにあったとしても自己の本質はそこには存在していない。本質は、大なり小なりの形式で表現できるものではない。「私は私である。」この命題はナンセンスなのだろうか。私という「多様さ」を目指す自己、いわば「多様さ」という思想に囚われている自己は「私」のドメインを縮小させてしまってはいないだろうか。「私は私である。」という命題がナンセンスではないと悟ること、それはつまり前件の「私」と後件の「私」の非イコール性を証明してしまっているのかもしれない。「私は私なのだ!」と宣言することとは、つまり、「私は(とある経路をたどりとある志向的偶像的全体にたどり着いた)私なのだ!」ということだろう。少なくとも、前件の「私」より後件の「私」は小さいのだ。「私は私である。」という命題をナンセンスであると断言できなくなっている。「多様性」の一種である、「多様さのある自己」とはいったい何であるのだろう。多様であるためには、まず多様であってはならないと述べた。多様という思想は、結果論であってはいけない。結果から多様という思想を弁護人として援用してはいけないのだ。つまり、多様さは最も多様ではない箇所に注力されているはずである。人の多様ではない部分はどこにあるのか。おそらく【出発地点】にある。胎児として外気に触れたその刹那に、「多様さ」の萌芽があるはずなのだ。上記した「偶像的全体」に関わる簡略形式には、以下の通り、見かけ上の出発地点を設けているということになる。

「偶像的全体」(出発地点)>……>「1次志向的偶像的全体」>「2次志向的偶像的全体」>……>「n次志向的偶像的全体」>……

この出発地点が本来的な出発地点ではないということはわかることだろう。もちろんこの「偶像的全体」の以前には多種多様な「偶像的全体」が存在している。出発地点における「偶像的全体」とは、いわばすでに「無で均された地平」や「個人の不在性」によって不可視に構築された「偶像的全体」をプロトタイプとして構築されたものである。その「偶像的全体」、つまり「解釈装置」とは両親である。両親でなくても良い。とにかく、私が物心つく前にかかわりを持っていた人間(=「解釈装置」=「偶像的全体」)に因果があるのだ。そのように考えると、自己とは「多様」な生環境に産み落とされた時点で自己以外のどの人間よりも「多様」な存在だったのだ。もちろん、自己以外のどの人間もすべて「多様」なのである。このような意味において、「多様さ」の在処は、【各人における出発地点が異なる「偶像的全体」そのもの】に存在していなくてはならない。ではなぜ「多様な自己」である自己を放棄してまで他の志向性の強い「多様な自己」を希求するのだろう。自らのアイデンティティはこの出発地点にこそ存在しうるはずなのに、なぜそれを問い質すような無限回帰的な反復をしてしまうのだろう。なぜ、人はそれを求めてしまうのだろう。それは、《出発地点または現時点での「偶像的全体」》に関わる現象であるのかもしれない。つまり、出発時点または現時点において、「相互的に関わる誰か」という存在様式が非常なまでの「多様さ」に支配されているということである。もちろん、私の周囲の環境は常に一定ではない。現時点と、現時点の過去を比較することはそれこそナンセンスである。ある特定の地点は、過去と現在では違う様相を見せるものだ。《出発地点または現時点での「偶像的全体」》について、出発地点の「偶像的全体」は出発地点にのみ依存しているわけではなく、その存在は自己の過去や未来の「偶像的全体」、またはまったく見知らないような他者の「偶像的全体」であるかもしれないということだ。まるで、上記した簡略形式が生態化しながらある場所に無数に存在し、激しい動きを伴いながらぐねぐねと交差しているような状況であるといえる。つまりは、そのときに生じる《交差点》が、《出発地点または現時点での「偶像的全体」》と呼ぶべき場所かも知れないという想定だ。この《交差点》は多くの人間(他者)、ようするに多くの「偶像的全体」または「解釈装置」を追認できたとき(できたと思い込んだとき)に増殖する。現在、それはインターネットによって成立させられている。つまりは、現代に生きる私たちはこの《交差点》そのものが「多様」であると、まじまじと思い知らされているのである。このコミュニティの存在様式の広角化により、「相互的に関わる誰か」という存在と、自己の「偶像的全体」、この両者の《交差点》を認識し解釈することで無謀なまでに無限に存在している《交差点》の「多様さ」を従来よりも「多様に」感受しているという証明になる。「人は多様に存在している。」その実感が、「多様さ」という概念に拍車をかける。世界を知らない人が世界(のようなもの)を知って感化されるように、多様な人々を観測することで人はその「多様さ」に感化される(その感化にはプラスとマイナスの面があることは言うまでもない)。感化の仕方が千差万別なのはもちろんであるが、千差万別であること自体は問題ではないのだ。千差万別であることによって、その「多様さ」は多くの人を繋げることに多少の問題があるのだ。「無で均された地平」を確信もって認知することは叶わないけれども、千差万別な相違をもつ「多様さ」はその分様々な方法で生き残る手段を持っているからである。そうなれば、「多様さ」は長く生き残ることになりその残滓が後世へと受けつがれていくのだ。その後の動静は既に記している。「多様である」ものとは、「相互的に関わる誰か」である。つまりは、自己の「偶像的全体」を尺度にしながら他者の「偶像的全体」を視認することであり、それによって《交差点》を無限に見つけることが可能な状態であるのだ。「多様な自己」を志向することとは、《交差点》自体をリフレクションした自己を見つけるための契機に他ならない。これによって、上記で説明した通り、自己は《交差点》という「多様なもの」をまじまじと見せつけられることによって「多様さ」の一部分から「多様なもの」を引き取り、その「多様なもの」を志向する「多様さのある自己」が生み出され、それに伴い自己に関するドメインは縮小しながら「志向的偶像的全体」が不可視的に構築されていくのである。そして、この形式は自己以外の「相互的に関わる誰か」においても同様である。このような、〈自己-他者〉の2者による形式は、相互的に認知されうる。これは、コミュニティの存在様式の広角化によって加速している。とすれば、この「志向的偶像的全体」は、ますます「多様な自己」に向けて縮小を加速し続けていくことになる。「縮小の加速」と述べているが、実際にある1点になるまで縮小し消失するということではない。集合論的に説明すれば、「…、かつ、…」という範囲がますます拡大していくということを述べている。まったく重なり合っていなかった集合が徐々に重なり合うと全体としてのドメインは縮小する、ということである。よって、縮小し続けたとしてもその範囲は決して1点にまで収斂することはない。収斂するのではなく、その集合同士いわば自己と他者の「偶像的全体」が「多様さのある自己」を希求すればするほど逆説的に同質に染まっていく、という帰結を生む。しかし、その「偶像的全体」はすでに述べ続けている通り《見えない》ものである。そしてのちに、「多様である」ものは、《幻想》へと化けるのであった。

何かを打ち明けるということ

【「多様である」とは《幻想》である。その《幻想》とはつまり、同質化しつつあるような「偶像的全体」によって、示されうる。この「偶像的全体」、いわば「幻想的偶像的全体」とは、非常にまで短絡化された強固で貧相な「多様さ」の因果なのである。】

この形式は、「相互的に関わる誰か」によって加速度的に進む。この加速度は、コミュニティの存在様式によって、いわばインターネットなどのインタラクティブなツールによって進んでいくものだ。のちに《幻想》は《幻想》を育み始め、極限にまで縮小した同質な「偶像的全体」が構築されるのである。「相互的に関わる誰か」、いわば他者について考えてみたい。他者とは、自己を隔てる存在のことである。自己と他者の2者の間には隔たりがあり、その隔たりによって〈自己-他者〉の構図が成立する。よって、「自己=他者」では決してない。それは、至極当然のことのように思える。しかしながら、上述したように、「偶像的全体」は、《幻想》を導き、さらにその《幻想》はべつの《幻想》を産み落とし育み始める。つまり、自己と他者の「偶像的全体」の差異が消失し、のちに同質性を帯びてくるということである。よって、この不可視化・同質化した「偶像的全体」を保持する自己と他者とは、極限にまで「自己≒他者」なのである。それはもはや〈自己-他者〉の構図の崩壊を示す。自己は自己ではなく、自己は他者である可能性があるのだ。同様に、他者も他者自身ではなく、他者は自己(他者の他者)である可能性があるのだ。インタラクティブなツールによってその形式は加速していく。自己と他者の「多様さのある自己」を希求する心理が加速する。この速度は速い。少なくとも、遅くはない。これにより、自己の「偶像的全体」は不可視化され、更には《幻想化》していくのだ。他者との《交差点》は無限にまで広範に行き渡り、その現象によって「多様な自己」を追求するに至らせることで更なる同質化が促進されていくのだ。そのような現象の最中に、ある1つの行為が産み落とされる。それは、「何かを打ち明ける」ことだ。「何かを打ち明けること」は、カミングアウトとも言う。内密にしていた事実を他者に打ち明けることだ。この現象は、《交差点》によって見せられた現象であり、それは《交差点》の「多様さ」に裏付けられていることである。幻想は人々のうちに同質性を育ませる。幻想が幻想たるには、無限に降り注ぐ他者との交差点を極限にまで浴びつづけながら「私」を希求することが必要だ。無限の交差点とはいわば「多様さ」である。「多様さ」を浴び続けると、「私」には「多様さ」が消えてしまうのだった。「私」が縮小してしまうのだ。つまり、縮小する「私」は他の誰でもない他者と極限にまで同質化しているのだ。限りなく同質である〈自己-他者〉の間には、相互に知らないことは殆ど排除されているだろう。そのなかの多少の「知らないこと」を、他の性質同様に同質に染めたいという欲求が「カミングアウト」なのである。まとめると、《交差点》は実際に「多様」であるのに、その《交差》する自己と他者の「偶像的全体」は「自己≒他者」の形式を推し進められることで極限にまで同質化が進んでいくということである。その点を踏まえてみれば、なにかを打ち明けること、ようするに、カミングアウトをする内容は自己に内在した「…、かつ、…」以外のドメインに存在しているものだと言える。無意識的に同質化していく自己と他者に残された非同質的な部分があるからこそ、カミングアウトをするという行為が成立しているのだ。しかしながら、そのカミングアウトの成立にはもう1つの条件がある。それは、「…、かつ、…」というドメインが極限にまで拡大することだ。その形式は、今まさに進んでいる。なぜそれが、条件として必要であるのか。それは、カミングアウトという行為が成立する側面の他に、カミングアウトという行為を半ば強制的に「させられる」形式を成立させる論理があるからである。自己は、相互的な世界を流動する中で多様な《交差点》を目の当たりにする。その《交差点》の「多様さ」が自己へ直にリフレクションされることで、「多様さのある自己」を希求するに至る。この形式は、全人類参加型のゲームのようなものだ。このゲームは止まらない。ゲームが進んでいく限り、極限まで同質化は進んでいく。この同質化は均衡状態を保持しつつ《交差点》の増加によって同時に逸脱を伴っている。カミングアウトする自己はその同質化が進むことで「…、かつ、…」以外のドメインに存在することを直に感受するだろう。同質なものが増えれば異質なものが目立つのだ。さらに、その同質化を目の当たりにすることで自己の「偶像的全体」は「…、かつ、…」へと近似していくのだ。つまり、カミングアウトする自己は、そのカミングアウトの内容を見出ししうるが《交差点》の縮減は皆無であるために、逆に同質化の速度は減少させることができず「多様さのある自己」を再び志向し始めるに至ってしまう。その結果、「偶像的全体」はさらに縮小していく(ドメインが縮小しながら、「…、かつ、…」の範囲が拡大する)。カミングアウトとは、私を同質性から解放する行為であるにもかかわらず、そのカミングアウトの内容を他の誰かとシェアしたがってしまう行為としても映るのだ。同質性を私から解き放ちない欲求が、己を自縛するのだ。
(この形式を保有する限り、カミングアウトは他者にカミングアウト内容のドメインを共有することに繋がるため、そのドメインの意味合いは縮減しかねない。結局、「自己≒他者」の様相を帯びた「偶像的全体」を不可視的に構築することに繋がってしまう。他者と「同質ではない」ことに気付いたからこそ勇気を絞りカミングアウトを実践するのに、その気づきは「偶像的全体」同士の《交差点》のリフレクション作用によって得られた「同質性」に依拠してしまっている。これは「同質性はすでにあったもの」のように写しとらせてしまう性質が付与されてしまうのだ。つまりは、カミングアウトした内容の事実性は、他者にとって、すでに心得ている既知の概念であり、至極当然の内容であると「勘違い」させてしまうのだ。この点は非常に厄介な問題であろう。)
この自己の問題は『ムジュン』へと至る。私は、自己と周囲との同質化が進んでいることを無意識的に感受しているのに対し、それとは相反している自己も認知しているのだ。変容の加速が止まらない「偶像的全体」と、まさに今発生している自己と他者による無限なまでの《交差点》は、この『ムジュン』をないがしろのまま放置させる作用がある。それは、半ば強制的な力によって成される。しかし、このまま放置していれば、自己は『ムジュン』したままだ。よって、自己は他者に対して「何かを打ち明けること」へと否応なしに帰結していくのだ。「多様さのある自己」への欲望を明瞭に志向することで「偶像的全体」の《同質化》が進む。この《同質化》という性質そのものが、「偶像的全体」の本質であると言い換えることも可能であろう。図2で示した「同質的な自己と他者」とは、「偶像的全体」の本質と近似している状況であるとも言える。全て重なり合うことは無いけれども(「偶像的全体」の構築不可能性)、《交差点》を多く観測「させられている」個々人は、常にこの「偶像的全体」の本質に近似しながら存在しているのだ。そして、それは限りなく不可視化された、いうなれば「新たな解釈装置」である。「新たな解釈装置」はそこかしこに配置されている。それは、自己において、また不特定多数の他者において配置されているものだ。また、その配置作業はインタラクティブな場においても完遂されていく。《同質化》した自己と他者は、均質的な「偶像的全体」(「解釈装置」)を保持する「自己≒他者」なのである。「多様さのある自己」を志向すれば、ひとたび「偶像的全体」によって見せられた《幻想》によって自己ドメインの縮小を達成し「拡散性のない私」が成立する。すでに上述しているが、縮小とはある1点に収斂していくことではなく、図2で示したような「同質的な自己と他者」の様相を帯びるということである。ようするに、これは、カミングアウトという行為の「根本的な勘違い」を犯していることを示しうるものだ。図2の「同質的な自己と他者」の形式をカミングアウト側は気付くことができないでいるのである。しかしながら、この形式を知覚することは決してできない。それは、「偶像的全体」の構築可能性の不可視化によって説明してきた。つまり、《同質性》を知覚できない自己は、あたかも自己と他者は、図2の「《交差点》のない自己と他者」の形式で存在しているものだと勘違いを犯してしまっている。《同質的》な自己と他者を相互に作用(自己が他者に何かをカミングアウトすることなど)させても、そこから生まれるものは非常に強固なつながりを基盤とした短絡的な帰結を生むだけである。この現象を知覚することは無理難題である。《同質的》な自己と他者による、欲望しあう気持ちの良いだけの関係が無意識的に重視されていくのだ。したがって、「カミングアウト」という行為自体は、この無意識に選択・重視される形式に内包されるような凡庸的行為に他ならないのではないだろうか。例えば、「カミングアウトをすることで社会的に安心して仕事や生活ができる」という言い前は、人類における「同質的偶像的全体」を不可視的に構築し共有しているからこそ持てる視点なのであり、カミングアウトの動機として本来的な在り様ではなくなっている。「カミングアウトなんかする必要もないし、カミングアウトをしてようやく受け入れられるような社会なんてくそくらえ」、これが私の主張だ。以上の論理は上述した【「多様性」を共有知に向かわせれば向かわせるほど、その「多様性」を元にした《分断》が起こるやもしれない】という主張を補足するものだ。不可視な《同質性》は強固であるために崩すことは容易ではない。「カミングアウトをせねばならない」という形式を同質的にもつ者たちは「カミングアウトなんかしなくていい」という形式を同質的にもつ者たちを排除し《分断》させていく。出発地点の「偶像的全体」は、本来的に同質である者を《分断》し、ある種の差別や偏重した優位性を加速させる作用があるのだ。この現象は、差別の論理を含んでいる。

打ち明けた先にあるもの

自己にとって内密な事実を、他者に打ち明けること。そのさきに訪れる現象とは、一体どういうものになるのだろう。今まで述べてきた内容は、「何かを打ち明けること」という現象を否定しているわけではない。「何かを打ち明けること」、そのような行為に裏付けられる、自己の決意、周囲の理解、社会的環境の変容などは、充分に認められるべき要素である。私が主張したいことは、「何かを打ち明けること」という現象が、まるで他者から強要されているような形式、すなわち不可視的に存在する《同質的》な「偶像的全体」によって進められているのであれば、それは本来的な現象である、とは認めることはできない。自己に内在する、自己に特有の性質を知覚し、それを自己の判断で他者に打ち明けているはずなのに、その一連の行為が、まるで「させられている」かのように振舞っている、ということだ。こうなってしまえば、「多様な自己」とは、自己が多様性に満ちているという意味であるとは、決してならない。多様であるのは、自己に関わる誰かの多様さこそが「多様」であるのであって、それ以上でも以下でもない。そして、この事実こそが、「偶像的全体」の《同質性》を担保する。つまりは、「多様性」という文言が、自己と他者、または人類における《同質的》に内在している無意識的事実へと、還元されている。「多様性」は、《同質的》であるための理論へと、還元させられている。「多様性」の理論の還元は、「多様性」の物自体を、不可視にさせている。不可視であるのは、この還元された「多様性」が非常にまで《同質化》された「偶像的全体」に、内包されているからである。「多様な自己」を希求する自己とは、もはや《幻想》に他ならない。
あなた自身が何かを他者に打ち明ける時、その現象を「自己から湧き出た欲望に従った結果である」と断言できるであろうか。断言できないのであれば、その現象は《幻想》なのである。「何かを打ち明ける」自己はすでに《同質性》の津波にさらわれている。津波が引いたころには、自己は他者の中にのみが存在していることだろう。いわゆる、今まで述べてきた「自己≒他者」の構築プロセスをそこで垣間見ることができるのだ。このプロセスは様々な箇所で観測することができるだろう。そして、この現象は一様に「非対称性」を生み出す。いわゆる、何かにおける「マジョリティ」/「マイノリティ」という2元的形式である。私自身そんなものを到底受け入れることはできない。また厄介であるのは、このような「偶像的全体」に関わる現象全てが不可視化されているという事実である。不可視化された「偶像的全体」つまり無意識的意識には、すべからず「悪意」は存在しない。「何かを打ち明ける」自己、「何かを打ち明けられる」他者、この両者には、「悪意」などは存在していない。他者が、このような「何かを打ち明ける」形式を実際的に強要することは毛頭皆無なのである。

何もしない

「こっちから何かをしてやるなんて、癪に障る。ましてや、「何かを打ち明ける」だなんて、至極面倒だ。なぜ、私がお前にわざわざ「打ち明け」なければならないのだろう。おかしなことだ。私は、私だ。前者の私も、後者の私も、私だ。それでいいではないか。この2者の私は、大なり小なりの数学的記号で結びつけることは不可能だ。結びつけるな。お前が私を小さくしている。私は別に、小さくなりたかったのではないし、大きくなりたかったのではない。それは決して、私の意図を反映したものじゃない。」今まで述べたことを記述すれば、このようになるだろう。この記述には、非常に精密な論理が背景として組み込まれている。しかし、この反抗的な言い前は、論理から逃れたい「私」が、逆説的にこの論理の証明を完遂してしまっている。それこそ癪に障ることだろう。それならばもう「何もしない」ほうがいい。何もせずに静観するのだ。この「何もしない」とは、図2の「《交差点》の無い自己と他者」の形式へと向かわせる力がある。しかし、その形式は自己と他者の接点が「極限にまでゼロへと向かう」ことを意味しているのではない。自己は他者が存在して初めて存在できる。平和が悪と共存せざるを得ない状況と同じように、自己は他者という概念があって存在を許容される。それら存在同士は《同質化》に向かってそこに安住することにもはや我慢をしなくてもいいのだ。私は私だし、他人は他人だ。それを真の意味で理解するために、《同質化》を拒み丁寧に拒み続ける努力が必要である。

まとめ

「何かを打ち明ける」という行為、つまりカミングアウトという行為は、カミングアウトをする主体(例えば、女性、障害者など、マイノリティ一般)の権利を主張しない。なぜならば、自己と他者に分け持たれた「同質的偶像的全体」に内包されているものこそ、この「カミングアウト」自体であるからだ。この両者に分け持たれた「偶像」としての「カミングアウト」自体とは、つまりは、もはや「カミングアウト」という主張形式が崩壊していることを示している。「カミングアウト」という行為自体、または、その「カミングアウト」の内容が、両者にとっては既知の行為、または事実であり、何ら「カミングアウト性」を帯びていない、ということである。ようするに、この「カミングアウト」という行為は、「させられている」ような形式の論理が、背後に存在しているのである。「同質的偶像的全体」は不可視に構築されうるため、その正体を認知することは決してできない。それはつまり、カミングアウトする主体が、「(カミングアウトする)私≒他者」のような同質的形式の存在を、理解することができないでいる、ということになる。そこから導かれる事実は、つまり、カミングアウトされた他者はすでに、マジョリティの利権を示す知識として、その「カミングアウトする内容」を、すでに掌握しているということだ。カミングアウトされた主体である、多くのマジョリティたちは、そのカミングアウトの内容を、「マジョリティのもの」として、また当たり前な既知の内容として、誰もが疑義することなく保有している。(女性問題、LGBT問題、障害者問題として、多くの人に分け持たれている課題であり、事実である。そう、これはマジョリティにとって「課題」なのである。)この構造は、すなわち、「階級」や「身分」を示しうる。カミングアウトする主体は、された主体と比較して、ただ純粋に「マイノリティ」なのであり、カミングアウトする主体は、その烙印を自己に刻み付け、「名誉マジョリティ」への帰化を、強制的に「させられる」。このようにして、マジョリティと言われる人々に「何かを打ち明けること」を実行する、というのは、決して《マイノリティの権利を称揚すること》に、繋がってはいかない。まず、この「名誉マジョリティ」への帰化を「させられない」ようにするために、積極的カミングアウトを行わないという、断固たる決意が必要である。それは、《同質性》を拒む、ということに繋がる。しかしながら、「同質的偶像的全体」はこの先も、多くの《交差点》を私たちに見せつけ、そのたびに、「カミングアウト」行為を迫ってくるということは、容易に想像ができる。マジョリティという構造は、マイノリティという構造を徹底的に還元し、「名誉マジョリティ」へ転換し尽くそうと、画策するだろう。しかしながら、「カミングアウト」という行為は、民主主義の国民国家に生きる私たちにとって、不可欠な1つの「自由」として、守られなければならないというのも確かである。また、国民をあらゆる角度で分断する、《非対称性(マジョリティ/マイノリティ)》が存在していることも、不可避な事実として、認識しなければならない。これらをふまえると、民主主義は多数派のマジョリティ側の意図に存在することで民主制が保証されるのであって、またそれは民主制の権利として「カミングアウト」が担保されているということであり、つまりは、その民主制(マジョリティの意図自体)がないと、それ(カミングアウト)すらも行うことができないという、矛盾がある。それは、避けようのない、更なるもう1つの事実だ。つまり、この《非対称性(マジョリティ/マイノリティ)》、ようするに「カミングアウトをさせられる形式の論理」に対し、どのようにしてどこまでその《不当性》を示しうることができるのか、その点が肝要なのではないだろうか。


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