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依存し合う塔/『東京都同情塔』

以下は、「東京都同情塔」を読んだ人、読むつもりがない人向けです。

目的地までの最短経路をGooglemapで検索する。検索の結果、「目的地まで車で〇〇分」と表示される。その瞬間、私は頭の中で目的地までのありとあらゆる時間を逆算し始める。目的地までは〇〇分かかるのだから、支度はこの時間までに終わらせて家を出なければいけないだろう。おのおのの支度のおのおのの所要時間はこれこれこれくらいで…そういえば昨日夕飯で使った食器を洗っていなかったのだった。今から昨日使った食器の後片付けをしている時間はないからそれは家に帰ったらするとして、おのおのの支度を悠長にしていられる時間が無いということだけは分かった。つまりは今すぐベッドからでなくちゃいけないということだ…。この人は友達との約束のために向かわなければならない目的地までの所要時間を検索していたのだ、ベッドの中で、すでに寝坊した事実と向き合いながら。

Googlemapで検索する最短経路は厳密には最短ではない。それは、交通状況とか天候とか歩行速度とか…そういったものは関係なく「最短ではありえない」。最短とは「目的地までの直線距離」である。目的地に行くために用いる移行手段はなんでもよい。とにかくそれが「最短」なのである。歩行の、走行の、車の、電車の、飛行機の、戦車の、乳母車の、人力車の「最短」は「目的地までの直線距離」である。なので、Googlemapで検索する最短距離とは最短ではないのだ。ではなぜ最短ではありえないのか?「道」に依存する「最短」だからである。とても簡単なことだ。人が構築した交通網に「最短」は依存しているからなのだ。何もない地表に「道」が舗装され、その舗装に従って建築網も発達し、交通機関がはり巡らされている上でのGooglemapの「最短」であり、そこには「道」が欠かせない。つまり「依存した最短」としてしかGooglemapでは用意ができないことは目の背けようもない事実なのだ。では、その「道」は何に依存しているのかと言えば、我々「人」である。つまりは、「最短」は「人」に依存するしかない。検索によって得られる最適解の「最短」は、「人」という要素を経由する他ないのだ。そうは言っても、「最短」は「目的地までの直線距離」であるのは揺るがない事実であるのだ。すると「人」はその事実ついて邪魔を企てて排除しているということになる。今回読了した「東京都同情塔」には、上記したある種のアナロジーに比する内容になっているのではないだろうか。

本著の中にも、「シャワーヘッドの効用」や「歯みがきの効用」、「スキンケア」などの記述の中に上記のようなアナロジーが存在している。

今日、衛生観念を持った人なら誰でも、「歯みがき」の本質は「磨く」ではなく「歯垢除去」にあることを知っている。

文藝春秋 p274

「人」は歯みがきという行為をいつのまにか「歯の表面などを磨く」ことだと勘違いし、歯と歯の間にある歯垢を取ることが歯周病対策では何よりも重要であることを忘れてしまっているのだ。その事実を忘れさせるものとはいったい何なのだろうか。「道」のアナロジーでもあった通り、少なくともここの事実にも「人」が関わるだろう。つまり、歯みがきの効用を邪魔しているのは「人」である。「人」は「人」に、もしくは「私」に邪魔されながら日々を過ごしている。「人」と「人」との応酬は留まることを知らない。この応酬に「人」は辟易させられるが、それが進歩をもたらすというのも事実である。

自己存在を疑わずして、人はどうやって進化できるの?無批判な自己肯定は、人間の潜在能力を過小評価することにならない?

文藝春秋 p338

このような存在の「人」は、本著の中で「塔」と言い換えられている場面がある。

私は陸上生物であるところのヒトを「思考する建築」「自立走行式の塔」と認識している。

文藝春秋 p284

人は「塔」である。言の葉っぱが生きてきた分だけ蓄積してそれを通して物事を判断する確固とした「塔」であるのだ。「人」が「人」に感化される時、主体はその「人」自体ではなく、「塔」を見ている。その「塔」に蓄積した何かを、絶対的な何かと考えられる何かを、無意識に見ているのだ。そして同時に、主体自身の「塔」を顧みる。「塔」と「塔」同士は交流して伸びていく。(本著でいう、東京都同情塔と競技場のような関係性)この瞬間に、「人」の自己否定と進歩がある。ここで注意すべきなのは、またしても「人」は邪魔されているという点にある。「私」、「人」は「塔」に邪魔されているのだ。その邪魔者としての「塔」は排除できない。「私」が「人」に見る「塔」は、「私」の「塔」に依存しており、そしてその「塔」はまた「私」に依存している。つまり、「私」は、「私」の「塔」を介在しなければ「人」を認識することができない、という絶望が横たわっている。「最短」は「直線距離」であった。Googlemapを介在する必要はない。この「塔」の介在による認識論の失脚、そして行為論との論争。本著には三島由紀夫の『金閣寺』の「認識論と行為論における議論」に関わるエッセンスが抜粋されており、重要な主題を成している。そして、この認識には「…べきだ。」「…でなければならない。」という、言葉に関わる色眼鏡が存在する。

……べきだ。それは私が自分自身を支えるために用意する、堅固な柱であり梁だった。私がいつもこのような話し方をして他人にも自分自身にさえもプレッシャーを与えがちなのは、わずかでも倒壊の可能性のある曖昧な要素を、自分の住まう家から根こそぎ排除しておきたいからなのかもしれない。

文藝春秋 p288

…べきだ。牧名沙羅の外部が、牧名沙羅に言わせようとしてくる言葉なのでは?牧名沙羅の外部の言葉と、牧名沙羅の内部の言葉の、境界はどこだ?(中略)それで、牧名沙羅の心はどこにあるんだっけ?

文藝春秋 p288

「塔」という言葉も、作中で様々な表現が実践されている。「監獄」、「命令形の言葉」、「支配欲」、「言葉」、「ノイローゼ」、「無意味なコンクリートの塊」、「義務と断定の言葉」、「経験則」、「破壊」、「創造」、「希望」、「三島由紀夫の《金閣寺》に登場する虚無的な美の金閣寺」、「不都合な事実」、「伝記」、「理解」、「誤解」、「生成AI」…。作中の「塔」は、本質的な実体がない事柄を指し示している。実際に作中に登場する「東京都同情塔」も「ザハ・ハディドの競技場」も「バベルの塔」も、すべては現実には存在しないものである。「塔」が様々な表現で言い表されている事実からも、この現象は確認できる。「塔」には、様々な存在様式の可能性がある、つまりは、「塔」は大きいゆらぎの中で存在する貧相で強固な建築物なのだ。しかし、「塔」の表現様式には「創造」、「希望」、「理解」など、社会的倫理から見て好ましい性質もあるということを見過ごすことはできない。

言語を変えてもすべてが同じ意味を持つ回答になるかどうか検算しながら、その回答に牧名沙羅以外の意志が関わっていなかったかどうかを検証する。関わっているとしたら誰の意志が、何の目的で、牧名沙羅にそれを言わせたのか?思考の限界がくるとAI-builtに質問し、返ってきた回答を行ったり来たりしているうちに日が暮れた。

文藝春秋 p346

私自身だけの思考に頼っているだけでは、「塔」の外部へ出ることはできない。外部に出るためには、その思考以外の思考を実践する必要がある。つまり、今の私自身の「思考(歯垢)除去」をおこない、除去した分の空白に別の思考法を入れる必要があるということだ。歯みがきの本質は「歯垢除去」だ。除去するために、「歯垢」を除去するために、今の私自身の「思考」を疑わなければならない。その作業をAI-builtは助けてくれる。AIは、貧相で強固な「塔」としての私の存在を揺るがしてくれる、別の「塔」であるのだ。それは、絶望でもあり、希望でもある。
以下の通り、作中の終盤では、主人公の「塔」にまつわる絶望と希望の思考の連鎖を垣間見ることができる。

私自身が外部と内部を形成する建築であり、現実の人生なり感情なりをここに抱えた人間たちが、私に出入りする。

文藝春秋 p349

(わたしが設計した)東京都同情塔が倒壊する未来。それは一分後にやってくるかもしれないし、百年後にやってくるかもしれない。

文藝春秋 p349

あらかじめ約束された塔の未来を脳裏に描く一方で、私は自分の二本の足が地面に着地し、体が空に向かって垂直に立っているのを感じる。そして私の思考は、もしもこのままで目を閉じて立ち続けていたら、この体はどのように倒れていくだろうかと、予想をし始めている。あるいは、強く吹き荒れる風が私をなぎ倒す。あるいは…。(中略)しかしそのとき、自分自身の瞼の暗闇の中に、まったく新しい未来が見える。私は倒れない。私はこのまま立ち続ける。

文藝春秋 p350

遠い未来の論理で言えば、あらゆる建築は馬鹿げた破壊だと言うこともできる。

文藝春秋 p350

(自分自身の生身を塑像とした象の建築を想像し)悪くない建ち方だ。そのまま永遠に立っていてもいいくらい。

文藝春秋 p351

でも、もしも彼らの(他人の)独り言に返事をしたくなったらどうすればいいのだろう?この街を歩きたくなったら?新しく建てるべき建築のアイデアを思いついてしまったら、どうすればいい?

文藝春秋 p351

疑問符は途切れることなく私の内部を浸し続けて柱と梁を濡らすから、応答に応えなくてはいけなかった。考え続けなくてはいけないのだ。いつまで?実際にこの体が支えきれなくなるまでだ。全ての言葉を詰め込んだ頭を地面に打ちつけ、天と地が逆さまになるのを見るまでだ。

文藝春秋 p351

私は「塔」であるべきなのか?それとも、「塔」でないべきなのか?または、全く別の「塔」へと化身するべきなのか?
いろんな「…べき。」を通り過ぎていく「私」という存在…。

主人公の自己問答には、私たちが学ぶべき、反省すべきエッセンスが集約している。しかし意地悪なことを指摘すれば、このような思考の連鎖こそ、主人公自身の「塔」によるものなのである。そんな皮肉も込められているに違いないだろう。

さらに言えば、このような指摘こそ私の「塔」によるものなのだと知ることができれば、この「塔」による効用は最大化されたと言っていいだろう。

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