誰かが死んだまま生きている

1,ふと退屈した気分が私自身を取り囲むと、とりあえず何かしなければならないと考える。しかし、何もする気になれない。それは、「退屈」という気分が促した意識だ。
2,ふと居なくなってしまいたいという考えが私自身を取り囲むと、その逃げ込む先を自死に求める人もいるのだろうと考える。そして、その人は死に至る。
前者の例、そして後者の例も、具体的に言えば全く違うレベルでの行為だ。しかし、もっと一般的に言えば、その両者に関わる相違はほとんどない。


死とはどういうものなのかを、今実際に生きている私自身が断定的に語ることはできない。しかしながら、死に関わるさまざまな可能性について思索をめぐらすことは何ら問題ないだろう。なぜか?
人は、自身の認識の目だけではさまざまな事象を語ることができないと思っているからだ。もしくは、そのように断定的に語りうるからだ。しかし言い換えるならそれは、人の数だけ事象のさまざまな振る舞いを観測できることにもなるのだ。
n人いれば、n人の認知機構が存在する。それゆえに、1人の私自身から何かを観測する時には最新の注意を払いながら、その何かを認識しなければならないのだ。
つまり、この独断論を許さない人というのは、様々な可能性を語ることについて許容しているともいえる。


死とは停止だろう。今の私の生体機能、認知機能などがすべてが止まることだ。「退屈」に支配されて無意識に何かをするということも、停止だ。生きながら意識は停止している。魂のような何かが停止している状態だ。退屈に支配されて何もできない人々は、死んでいる。死にかまけて生きている。生きながら死んでいる。そういう意味で、この両者の例には相違がない。1のような例は無数に存在している。毎日、誰かが死んだまま生きている。その存在の可能性は、無限に開かれている。皮肉にも。

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