錆を凝視している。金属を腐食する錆。錆に腐食される金属。その両者の前後関係を考察する意味はほとんどない。私の目の前に、その錆が存在していることが重要だ。金属が晒されてきた歴史。錆が築かれてきた歴史。歴史を垣間見ている今の時間。時間自体が重要なのだ。錆は金属に対し絶対的な存在を誇示している。その状況を金属はどう思っているのか、私には知る由もない。知る必要もない。絶対的な存在を変更することはできない。だからこそ絶対なのだ。この錆を凝視していると、不思議とその錆に親しみのようなものを覚えてきた。深い暗闇がつんと冷たい空気に覆われる中、遠くかすかに聞こえる除夜の鐘のように、親しみの音がとある振動数をもって耳に届いている感覚がある。その錆に私は凝視されていた。錆も私を認知しているということなのだろうか。それは知る由もないことだ。知ることのできない不可解な事実は、不可解な事実であるという事実として間違いない。確かに今、私と錆は凝視し合っている。おそらく錆は気付いている。私の思惑に気付き始めている。そして私も、錆の思惑に気付き始めている。私は錆に対して、とある要求を欲していた。錆は私に対して、とある要求を欲していた。欲望と欲望が金床の上で火花を散らしながら澄んだ高音を響かせてぶつかり合っている。そうしているうちに2つの欲望は静止した。のちに、均衡した。そして、死んでいった。
死んだ事実が遠い過去として思い出された刹那に、その記憶は除夜の鐘となって私の心に宿る。そして、私は錆を凝視していた。

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