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1Q84年の月

「月がきれいですね」を「あなたのことが好きです」と解釈する夏目漱石の有名な表現がある。そこには、月がとても「きれいだ」という感覚をあなたと共有できたらいいという欲求がある。「月がきれいですね」とぼくが言い、あなたにも「そうね」と言ってもらいたいという期待と予測がある。この予期待と予測は、ある種の確信を伴っているものでもある。月がきれいであることに同意してもらいたいということは、月がきれいであるという感覚を共に分かち合いたいということでもある。何かを分かち合うということは、ぼくの一部分をあなたの一部分の空白に住まわせるという意味でもある。また逆に、あなたの一部分をぼくの一部分に住まわせてくれないだろうか、という問いかけでもある。月がきれいであると「思うこと」を共に分かち合えるだろうという淡い期待と確信を背負いながら「月がきれいですね」と取り留めのない言葉を発する。それは、今のぼくが見る月があなたと同じであってほしいという気持ちの表れでもあり、あなたには同じ世界にいてほしいという意味でもあるのだ。

「月が2つあるね」という言葉に対して「そうだね」と確認し合う誰かが存在するのなら、その問いかけを「あなたのことが好きです」と解釈することもできる。月が2つある世界に同じく属しているという期待を背に、この言葉を誰かに投げ掛ける。月が2つある世界に確かにぼくと誰かが存在している。そして、お互いの何かを差し出し合って共有することが出来る。2人で閉じている素晴らしい世界がここにあることを感じることができる…。そんな場所を、海上に揺らめく小さな無人島に例えてみてもよい。そこにあなたとわたしの2人だけが存在している。危険な生物はいないし、作物も豊富だから食に困ることもない。朝には煌々とした太陽が2人を優しく出迎えてくれるし、夜にはたくさんの星の光が充実した夜を確約してくれる。無人島から出る必要がないくらいそこは完結している。(その完結性は無人島から出るという想定を消している。)逆説的表現で言えば、2人はこの幸せから逃れることができないのだ。それを「幸せ」として受け取り尽くしているから。幸せに閉じた無人島で時間を反復するとそこは1つの完結した世界として構築されうる。ほかの世界がある事実を確認させないような(できなくなるような)構造を、良いか悪いかはさておきこの無人島が作っているのだ。たしかに、無人島で暮らしている2人は何かを差し出し合って交換した。けれども、その交換した何かはその人間のすべてを語る性質にはなり得ないということを忘れてはならない。人1人には命題的情報がおおく含まれている。そして、そのような性質は時間の経過に伴って刻一刻と変化する。(変化のない人間は死人同然だ。)その変化には2人の関係を変える作用も含まれており、その作用を及ぼすのは時の流れそのものである。お互いに交換したものは、時間の経過に伴い錆びれていく。つまり、無人島で唯一脅威となり得るものは「時間」だ。時間が存在することで、2人の相互作用は徐々に別の形態へと変化せざるを得なくなる。その結果、次第に反発因子が増殖する。次の行動として、無人島の外へでるか?/世界から逃れるか?、という2つの態度の選択が挙げられる。

前者は、2人の関係を形作ってきた無人島を永遠に心の碇に留めておくことはできないことを悟ることである。得たものを少しでも生きながらえさせるためには、心の碇を留める場所を別に求めなくてはならないということを学ぶのだ。閉じた世界を隅に置いて、新しい世界を求めなくてはならない。また、後者についていえば、清算のための方法を自ら考え出し実行する態度のことだ。つまりは、過去をそのまま保存するための「あきらめ」の態度とも言い換えられる。誰かはカルモチンを用いて自殺未遂を行い、また別の誰かはヘックラー&コッホを口に含み銃口を脳みそに向けて引き金を引こうとすることでそれを行おうとした。実行したのちに、過去は閉じた世界として誰にも犯されることはなくなる。幸せは誰にも侵犯されない。しかし、その世界の存在は証明不可能になる。

この問題は、移動するのか、もしくは留まるのか、という2つにある。この物語の中で移動したものたちは「青豆、天吾」であり、留まったものたちは「深田保、深田妻」なのだろう。

「月がきれいですね。」「月が2つありますね。」「そうですね。」「たしかに2つあるね。」すなわち、この会話の応酬には危険が伴うものであることを忘れてはならないということだ。月は、全ての意識や無意識が詰まった、いわゆる方舟だ。月を見てきた人の記憶や意識は、全て同じ月に集約される。数えきれない記憶や性質を持つのだから、そのような月を一様に決めうる言葉には注意を払わなくてはならない。月の光が忌々しく思える種類の人間だっているのだ。だからこそ、1Q84年の世界において、天吾と青豆はもとの1984年に戻ろうと試みたのだろうと思う。2人は1Q84年の世界で無事出会うことができた。邂逅したひとつの要因は「2つの月」の存在だった。それは好ましい出来事だった。しかし、その好ましさの反作用として、この閉じた世界には危険が多すぎることも身をもって実感してきた。閉じた世界の滞在時間が長くなればなるほど、反発因子が増殖してしまい制御できなくなってしまう。

影のない光は無いのであり、光のない影は無いことを、身をもって学びとる。好ましい光が増えれば、その分好ましくない影も増えてしまう。

ならば、この世界から外に出なければならないと考える。それしか実際的な方法がない。入ったならば必ず出なきゃならない。西友にも伊勢丹にもGINZA SIXにも閉店時間はある。閉店してる間に店内を整える必要がある。次の開店に備えるために。閉店時間には、店内にいてはならない。

だから、この「1Q84年」の世界からでていく。または、猫が夜を支配する「猫の町」からでていくのだ。

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