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言いかたをかえる

身体上にある細胞は今この瞬間も生まれては死んでいる。私自身が途方もない数の細胞から構築されている有機生命であるとするならば、今この瞬間私は私ではなくなっているということになる。死を迎える細胞への手向けをすることもなく、そして生まれ行く細胞を厚遇することもなく、その細胞のことをただ思う私は死に続けながら生き続けている。このように語る私はその事実を承知しているのだ。ならば、こうも認めなければならない。死に続けている私自身は、生きながらその死を認めていることになるのだと。そして、その死を認めているのは私自身に他ならないのだと。私自身は常に喪失し続けているかもしれない。しかしながら、その喪失には「死を認める私」は含まれてはいないのだ。どのような細胞死の前後においても私自身が死にながら生きている事実を認めさえすれば、私は「死にながら生きている死体」として生き続けることができる。


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身体上にある【音楽】は今この瞬間も生まれては死んでいる。【音楽】自身が途方もない数の【音楽体験】から構築されている有機生命であるとするならば、今この瞬間【音楽】は【音楽】ではなくなっているということになる。死を迎える【音楽体験】への手向けをすることもなく、そして生まれ行く【音楽体験】を厚遇することもなく、その【音楽体験】のことをただ思う【音楽】は死に続けながら生き続けている。このように語る【音楽】はその事実を承知しているのだ。ならば、こうも認めなければならない。死に続けている【音楽】自身は、生きながらその死を認めていることになるのだと。そして、その死を認めているのは【音楽】自身に他ならないのだと。【音楽】自身は常に喪失し続けているかもしれない。しかしながら、その喪失には「死を認める【音楽】自身」は含まれてはいないのだ。どのような【音楽体験】の死の前後においても【音楽】自身が死にながら生きている事実を認めさえすれば、【音楽】は「死にながら生きている死体」として生き続けることができる。


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だから私は存在する。だから【音楽】は存在する。

存在する私の中に、存在する【音楽】がある。

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