光の届かないフラクタルな街

10年前、特段入社したくて入社したわけでもない会社の転勤の関係でA市に赴任することになった。そこは地元の埼玉県K市に比べると、ひどく閑散として小綺麗な街だった。その閑散さは、今ここに同じように人間が暮らしているのかどうかさえ不安になるくらいのものだ。その人気のなさが、この小綺麗な街並みをつくっているのではないかと思うほどである。人がまばらに歩いている様子は、数学の自明の数列のように規則正しい。また、その歩道に敷かれているタイルは綿密に並べられて補整してあり、一切のズレが存在していない。もちろん道路にはごみも落ちていないし、ごみ箱も全くないのだ。この街にあるありとあらゆる線は90度で交わるように設計されていて、町中が大小の四角形からなる碁盤のようになっている。その線で形成される四角形の内側には、こと細かに家や墓地が密集しており、その四角形の中にもこの街の相似形が存在していた。四角形が同じように存在しているフラクタル構造が、この街を織りなす本質として鎮座していた。ここに住んでいる人たちは、東から登って西に沈む太陽のように同じ軌道上だけを移動しているのではないだろうかとさえ思えた。人びとはその軌道上だけを利用して移動するため、軌道に関わらない場所には人が集まってこない。わたしは、このA市に住んでいて、たびたび太陽の通らない場所に住んでいるのだとしばらく錯覚していたほどである。光の届かない、フラクタル構造の町。

あらゆる相関から免れたようなこの土地で、ぼくははじめての一人暮らしを始めた。4階建てアパートの3階角部屋の1K。このアパートも、周りの四角形のルールに従って全ての座標軸に対し90度に存在していた。実際に一人暮らしを始める前は、毎晩部屋のレイアウトについて考えふけってしまうほどの楽しみだったが、いざ実際に暮らしてみるとその興奮は一瞬でどこかにいってしまった。それは、あるていどの期間を経た後にやってくる「慣れ」みたいなものがあるだろうが、一番の要因は住む場所の問題が大きかったのだろうと今は思う。何しろ、どこまでいっても終わりのないフラクタルながらんどうの町であるのだから。そしてなんといっても、極夜が日常茶飯事に起こる。(私の頭上に太陽が通らないから。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?