ポール・オースターを偲ぶ

好きな作家にポール・オースターの名前を挙げると「どんな作家?」と聞かれます。「僕にとってポール・オースターがどのような意味を持つ作家か」と聞かれているのだとしたら、僕はこんなことを言うと思います。

「あなたが真っ黒で巨大な立方体の中に閉じ込められたとしましょう。前後も左右も分からない、ただのっぺりとした闇だけが広がっている。そんな暗闇に、ふと錐でつつかれたようにポツリと小さな穴が開く。その穴から光が差し込み、ああ私は前を向いているのだと初めて分かる。暗闇から抜け出すことはできない。でも、少なくとも世界には光がまだ満ちている、穴を手がかりにすればどうにか外にも出られるかも知れないと気づく。オースターは僕にとって、そんな穴を開けてくれる作家です。」

ポール・オースターが、亡くなりました。

柴田元幸さんの瑞々しい訳で日本の読者に届けられてきたオースターの作品。その数々は、明るくもどこか厭世的な警句を織り交ぜながら、軽妙な語り口でニューヨークに生きる人々のぎこちなさを描き出してきました。どこか周りに馴染めない、どう足掻いても世間から見捨てられた感覚を拭い去れない。そんな不器用かつ愛くるしい人々が行き来するオースター作品の世界。その根底には、常に「愛」があるように思えます。

彼の作品には、死の縁に立って深淵を覗き込んだ人々や、底はかとない後悔を抱えた人々が多く出てきます。そんな人々が、静かに、だが確かに一歩ずつ歩を進める。人生に絶望した、あるいは世界に裏切られた人々が、それでも人生を、世界を肯定する。この世が湛える闇も光も見つめ抜く彼の姿勢は、この世界を愛していなければ獲得できないある種の勲章のように思えるのです。

僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ。

ポール・オースター著、柴田元幸訳『ムーン・パレス』新潮文庫、94頁

世界に希望はあるのか。人生に意味はあるのか。何をよすがに生きていけば良いのか。答えの出ない問いに向き合い続けたオースターという作家。寂しさの中にきらりとした輝きを持った文章に支えられてきました。これからも、きっと支えられっぱなしだと思います。

どうやって世界を愛し、自分を愛していけば良いのか。オースターは自身の作品の中で、そのヒントを与えてくれています。紅白という区別を超えた「青組」のメンバーになることが、今から踏み出せる一歩のように思えます。

とにかくユーモアのセンス、人生の皮肉を楽しめる目、世界の不条理さを認める能力。けれどさらに、ある種の謙虚さと思慮深さ、他人に対する思いやり、寛大な心も求められる。… 青組のメンバーは好奇心旺盛でなければならず、本もよく読み、世界は自分の意思どおり曲げられはしないという事実を認識していなければならない。鋭敏な観察者にして、微妙な道徳的判断も下せる人間、正義を愛する者。

ポール・オースター著、柴田元幸訳『オラクル・ナイト』新潮文庫、74-75頁

人生は短いが、それでも生きるには値する。ご冥福をお祈りします。

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