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若き徳川家康公を振り返る(2)

元服から初陣まで

元服後、家康公はすぐに三河国に戻すことはされず、今川義元公の直轄として仕事をしていました。

三河にいる松平譜代の家臣は今か今かと家康公の帰りを待っている状態。

この頃の今川家は、太原雪斎もこの世を去り、新たな軍師を探しているところでした。おそらく今川義元は徳川家康の優秀さを察知し、将来的には軍師として傍に置き続けたかったのかもしれません。

しかし、家康公は待っている三河の家臣のため、一刻も早く三河国に顔を出し、成長した姿をお見せしたいところ。

そんな最中、現在の豊田市にある寺部城の城主が今川家から離反し、織田信長に鞍替えをする事件が発生。

家康公は、初陣で手柄を上げたい、さらにその場所は自分の故郷である三河である。若き家康公が手を挙げない訳がありません。

一方の今川義元も、家康公を少しでも長く手元に置くことで、当主不在の三河国の今川家実効支配を強めたいところ。その一方で、家康公に武功をあげさせ、今川家内での家康公の立場も確立させたい思いもあったかもしれません。

今川義元は、寺部城の対応を徳川家康に一任します。

見事家康公はその期待に応え、寺部城の奪還に成功します。

▲この動画の説を採用しています。とても分かりやすい!!!

この当時の家康は、義元公の重臣の娘を妻として出迎え、周囲の家臣からは嫉妬の目で見られていたことでしょう。
さらに三河の国主ということもあり、「潰したい」と思う家臣もいたことでしょう。
そのような様々なプレッシャーに負けず、冷静に寺部城を攻め落としたのは、一重に幼い頃の辛い経験を乗り越えたからでしょう。

しかし、この合戦で武功をあげても、三河の岡崎城の城代にはなれませんでした。

年齢の若さもあってか、まだ早いと判断されたのでしょう。
それでも今川義元からすると、期待の新人が活躍をしてとても嬉しかったはずです。

そして徳川家康公の人生を大きく変える運命の桶狭間の合戦へと進みます。

今回はここまでです。

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