俳句鑑賞:デパートの夢
この間、デパートに行ってきました。デパートの売場は、食品部門を除けば、今や人の少ない場所で、売り場によっては従業員の方が多い有様です。そんなデパートですが、ある一定の年齢層以上の人にとっては特別なもので、戦後社会を象徴する夢のような空間であったように思います。
有名な句の鑑賞による年代記
デパートは俳句でも詠まれていて、
という句がデパート俳句の始まりだったのではないでしょうか。『増殖する俳句歳時記』の清水哲男さんの鑑賞では、呉服屋としての松坂屋だったのであったとのことで、詠まれた場所は上野の松坂屋のようです。上野松坂屋は東京帝国大学の玄関口である立地であるから、公私を切り替える境界として、スイッチが入るお店だったのかもしれません。乙鳥(つばくろ)は、公私の境界もあるけど、顔の毛の赤い品種がいて、「赤」の色合いの説明も兼ねているように読みました。肩肘張らず、軽快に詠まれていて、好ましく思います。
有名な句といえば、
も欠かせません。前掲『増殖する俳句歳時記』の清水哲男さんの鑑賞によると、作句時期から考えて、東京駅ではなく、関西地方のどこかの大丸ではないかとあります。東京駅で想像していたので、ちょっとびっくりです。「遠足の列」というものは、どうも人間的でない題材だと思うのですが、「大丸」を通るだけで、どこか子どもの一人ひとりに人間的な表情を想像してしまうのが、不思議な句です。
昭和後期に詠まれた中で、若い作者たちにとって有名なデパートを詠んだ句は、
でしょうか。他の人の鑑賞を調べてみると、俳句のポータルサイト「セクト・ポクリット」の企画で複数回鑑賞されていましたが、共通して、句の前提として、「明日は三越」のフレーズは戦前の広告のキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」のパロディであると書かれています。橋本直さんは戦前の滅びの美学とコマーシャリズムが結びつく皮肉を読み、小津夜景さんは「幾千代」と「美し/三越」という言葉の斡旋から、江戸時代後期の永代橋落下事件を連想して、<永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼 大田南畝>の本歌取りで、夢と憂の対比であるという読みを試みています。
僕は、昭和後期の時代性を読みました。攝津より句集としての発表時期は遅いですが、同時代の川柳に<五十歳でしたつづいて天気予報 杉野草兵>という句があります。現代のメディアは感情豊かで、前の話題に感情を引っ張られることも多く、泣きながら進行したり、笑いを堪えながら進行したりということも少なくありません。それを考えると、昭和の時代は、個人としての感情を切り捨てなければならない非情な時代だったと思います。攝津の句も、広告が持つ感情の流れの断絶を詠み、いつの時代も不自然に明るいコマーシャルの不気味さを描いていると読みました。掲句にはどこかおかしみがあるのですが、予定調和な感動の流れが断絶して、日常に着地することで緊張が解けてぷっと笑いが起きる感じが、昭和後期の笑いという感じがします。
俯瞰して句を読むと、皮肉というより、消費時代やそれを先導する広告への憎悪を感じます。攝津の略歴を見ていると、広告会社に勤めていたとありますが、自らに近いからこそ、広告に憎悪の感情が芽生えたのでしょうか。作者の事情はさておき、現実として憎悪は読み継がれて、現代の作家に影響を与えている部分はあると思います。
デパートの夢
ちょっと重めの句をやっつけたので、少し肩の力を抜きましょう。話の軸を戻して、夢の空間としてのデパートがどのようなものだったかを見ていきます。
銀座和光は、映像で銀座をイメージするときに必ず出てくる時計塔で有名な百貨店です。テレビであまり取り上げないので、あまりに現実感がなくて、中は空っぽなんじゃないかと疑っていました。すいません。松過は、正月が終わった辺りでしょうか。日常生活に戻るところでの待ち合わせですから、日常の買い物に銀座を使っている人が友人と待ち合わせをしているという感じでしょうか。待ち合わせ場所は入口横のショーウインドウでしょうか。まさか、デパートの中ということもないでしょう。なんというか、上流階級の暮らしを垣間見ているようで、読み込むほどに夢まぼろしの世界にいるのではないかと思ってしまいます。
三越のライオン像は、全国のほとんどの三越デパートの玄関に設置されたもので、都市の時代を見つめている守護神のような威厳があります。コロナ禍ではマスクをしている像もありました。掲句では待ち合わせのランドマークに使っているようです。春の明るい気分と人と待ち合わせをしている人の肩に視点を誘導する修辞に、浮かれた気分を感じ入ります。
エリー湖はアメリカ合衆国とカナダの国境にある湖です。デパートには何でも売っているというけど、こんなものまであるのかという興奮を素直に詠んだ句です。今だったら、ECサイト(ネット通販)の品揃えに感動するようなものですね。当時は、物理的な空間で何でもあるというのが楽しかったし、買い物はできなくても珍しいものを見るだけで貴重な体験だったと、今や昔を懐かしむ気分です。
デパートの寂しさ
今度は、消費生活への感情の枝葉として現代に伸びた「貧しさ」「寂しさ」という観点から詠まれた句も読んでみます。
百貨店という巨大消費の場に行ったにも関わらず、自らは釘を買っただけで済ませてしまった。貧しいのか吝嗇なのかはわかりませんが、安い買い物で済ませた太々しさを西東三鬼の忌日と取り合わせています。作者の三鬼観の提示とも思いますが、デパートが巨大消費の場であるという前提が暗に詠み込まれています。
デパートも、昔から小売での売り上げが良くない売り場というのがあるのですね。僕が先日見かけた利用客の少ない売り場は、紳士服と腕時計の売り場でした。男性がパーっとお金を使えないという世知辛さがありましたが、ここでは毛皮売り場が詠まれています。女性の衣料品でしょうか。なるほど、毛皮の小売はあまり賑やかでないのか。そうです、俳人はすみっこが好きなのです。
デパートのすみっこ
続いて、貧しさとは外れますが、往来の多い都会のすみっこにある光景を読んでみます。
デパートに巣を作っていた燕が故郷に帰る。この景だけで、さまざまな感情が湧き起こります。デパートは消費の場であり、都会にあります。都会に仮住まいして故郷に帰る燕に、Uターンで故郷に帰る若い人を重ねることもあるし、都会の大消費の場の器の大きさも示しています。去るものを見送る時の寂しさや、誇らしさ、旅の無事を祈る思いなど、さまざまな感情が胸に去来します。
最後に、デパートの楽しさと寂しさの境界と読んだ句を読んでいきます。
これほど読者が試されている句もありません。僕は、夜の社交場にはてんで縁がないので、夜の世界は何がしかの作品を通してしか接点がなく、娼婦の嘘に騙された悔しさみたいなバイアスがありません。良いことなのか悪いことなのかはわかりませんが、そのために、生活の中にいる娼婦を想像してしまいます。
記憶のトリガーは、視覚か、はたまた嗅覚だろうか、感覚を巡らせます。デパートの入口では大抵女性ものの化粧品や小物が売られています。はたまた、洋服か食品か、子どもを連れてレストランや屋上遊園地で時間を潰すひとり親か。
作者は娼婦を好もしく思っているのだろうか、そうではないのか、それとも心配しているのだろうか、はたまた遠い思い出として懐かしがっているのだろうか。感情の部分も読みの可能性がとにかく広いです。
読み方にキリがなくなるので、句の第一印象を書きますと、デパートは生活と夢の境界というイメージなので、作者は娼婦とは、生活を垣間見たことのある関係性なのかなと思いました。見た目は派手だけれども生活に苦労していて、表の顔と裏の顔が地続きになった瞬間を思い出したという読みをしました。
アプローチはシンプルですが、奥行きの深い句だと思います。こういう句、いいですね。
まとめ
色々な句を読んでいきましたが、百貨店のイメージのようなものは掴めたと思います。時代が下るごとに「デパート→厳か→消費の場→楽しい」と変化していく感情のロジックが前提された上で、枝葉に発想を飛ばしていることがわかると思います。そして、消費への憎悪という枝葉のひとつが現代に支持されていて、その延長線に、百貨店の黄昏を見る思いがします。
参考文献
(参照データベース)
大型俳句/俳句関連文書検索エンジン
http://taka.no.coocan.jp/a1/cgi-bin/haikukensaku.html
(参照)
『増殖する俳句歳時記』検索: 20030409
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20030409,20030408,20030407&tit=20030409&today=20030409&tit2=2003%94N4%8C%8E9%93%FA%82%CC
『増殖する俳句歳時記』検索: 20040409
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040409&tit=20040409&today=9it2=2004%94N3%8C%8E1%93%FA%82%CC%20title=
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦 | セクト・ポクリット(2020/12/27)
https://sectpoclit.com/ozu-13/
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦 | セクト・ポクリット(2022/09/29)
https://sectpoclit.com/hashimoto-104/
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