季語の要件〜季語をどのように定義するか

 「俳句とは何か」という質問に対して、答える側はいくつかの要件を提示して答えます。五七五の十七音で構成されること、季語があること、切字を伴うことというのが国語教育の範囲で教わる基本的な要件です。もちろん、俳句をやっていると、必ずしもこれらが要件ではないということはわかってくるのですが、俳人にはそれぞれに色々な考え方があって、意見の対立などもあるようです。今回は、そういう争い(研究史)を参照せずに、現実に俳句を作っている実感から、季語をどのように捉えているか、言語化していこうと思います。
 本noteでも、季語について述べた文章はいくつかあります。有季俳句と川柳を比較して、最も強い情緒を醸し出す言葉が季語である時に有季俳句になるとか、季語を作るための手続きについても考えました。直接季語については述べていませんが、無季俳句と川柳を比較したこともありました。俳句と川柳の比較は、裏を返すと、どのような事物を季語として認めるか、という手続きについて考える材料を並べていったとも言えます。前に考えたことを参考に、季語とは何かを考えていきます。

季語の核心〜俯瞰

 そもそも、季語としての情緒を得るためには、題材が人間そのものであってはいけません。事物が望ましいですが、人事に含まれる季語も存在します。人間に付随するものを詠む場合、読者としての自我を残す余地があるものでなければいけません。すなわち、のめり込んでもどこかで俯瞰的にいられるような題材である必要があります。
 「汗」(夏)がわかりやすいですが、汗を描写するのは、人間の外側を俯瞰している光景です。決して、人に入り込み過ぎない絵画的な光景を描いていることがわかると思います。これは、客観写生の文脈で語られる描写とも言えます。
 あるいは、「暑い」(夏)「寒い」(冬)「冷たい」(冬)など、身体感覚に接する季語もあります。しかし、言葉を媒にして感覚を理解することはあっても、のめり込んで、作者の内心にまで潜りきることはありません。感覚の描写は内心を想像させても、内心そのものには至りません。内心から見た時、感覚の描写はやや婉曲的に写ります。例えば、言葉の持つイメージから、「冷たし→痛し→憂し」のような内心への誘導は起こりますが、俳句では「憂し」のレベルの内心を直接表現することは嫌うことが多いです(「秋愁」などの季語もあるように、全く使ってはいけないということではありません)。
 また、人間を詠む場合は、死者でなければいけないという約束があります。以前、スポーツ新聞の記事で、冬のオリンピックで活躍したアスリートを季語にできないか真剣に検討していたものがありましたが、「死んだ人間でなければ季語としては認められない」という結論でした。死ななければ人物の評価が定まらないという説明がされていましたが、「俯瞰」という理由を使って改めて考えてみると、イメージが固定しないと、人物にのめり込んでしまって、読者が俯瞰して人物を思い描くことができなくなります。俯瞰的な視点は、対象の人物と同一的になるようなのめり込みとは異なるもので、死にのめり込むより何かの折にふと思い出すという距離感でなければ、俳句で死者を詠む動機にはならないでしょう。川柳が記事の企画に前のめりだったのも、俳句とは詠み方が異なり、読者が人物に乗り移るものであるから、人物の内心を描こうとする報道の情報からだけでも、句が成立するのだと考えられます。
 また、「アニミズム」の文脈では、<鷹が眼を見張る山河の透き徹る 林翔>という句を鷹に憑依して世界を見ているという鑑賞がありますが、この場合、作者としての目線と読者としての目線は異なってきて、読者としては鷹にのめり込んでいるというより、鷹の目を借りて世界を見せてもらっている感覚があります。鷹にのめり込みたくても、鷹の肉体を想像することはありません。どうしても、どこかに読者としての自己が残ってしまいます。言い換えれば、着脱自由な状態で鷹と化している状態です。憑依の一歩手前で、憑依している自己を俯瞰するという感覚を句を読むときに思います。
 このように季語は内心を直接描きません。俳句は、季語の持つイメージからゆっくりと内心へ誘導します。内心への求心力は川柳の方が強く、内心に近いところを詠みます。俳句は、内心に潜っても憑依的になることはなく、内心に対しても俯瞰的になってしまいます。そのために、季語の要素の一つを「俯瞰」と考えます。

季語の核心〜瞬間

 次に、季語は永遠的でない、通年を通して同じ実感を持つ題材ではいけません。通年的な題材であれば、特定の季節に特に情緒が刺激されるもの、飲食物に顕著ですが、いつも味が安定しているが、特定の季節になると、脂が乗って美味しいとか、喉が渇いていつもより美味しく感じるものが季語として共有されています。例えば、冷たいビールが渇いた体を巡る感覚は夏だけのものですし、燗酒が血管から身体中を温める感覚も冬だけのものです。それも瞬間的な感覚です。あの、酒ばかりの喩えで申し訳ないです……。
 俳句に親しくない人からすればヘンテコかもしれませんが、「マスク」(冬)の季感が通年になった時期には、マスクの季感について真剣に議論されていました。この議論で重要な要件は、「マスク」という言葉から受ける感覚が季節単位でしか感じ得ないほど短い感覚であるのかという点であると考えられます。永続的に感じられる感覚は、季語としての情緒を欠くというのは見逃せない視座であると思います。
 このように、日常の感覚ではないものへの感動を「瞬間」のものとして表現している言葉が、季語の要件として考えられます。
 また、瞬間的な感覚は、生きているということを暗に示していると思われます。「冷たい」(冬)という季語の例句を見ていると、「冷たい」の語から浮かぶイメージは、瞬間的に感じた感覚、あるいは、気候や環境の感覚、そして、死を描写する時に用いられています。「冷たい」には「触れる」という恣意が必要で、恣意から得られる感覚は生を伴います。生きているから冷たさを感じる、それは生きていることの確認とも言えます。俳句で死について描写するには、生の否定という形を取らなければなりません。生を強く意識することにより、命に対する意識が深まります。命とは今であり、瞬間であります。死人を想うのも、死人を想うことで、自分が生きていることを確認でき、死人が生きていた瞬間を想うことになります。
 生とは永遠のうちの瞬間に過ぎません。そのため、瞬間を描くことと生を描くことは近似して表現されます。俳句で死を表現するためには、生の立場から死を観測することを必要とします。死人を描くのは俯瞰的でもあり、瞬間的な物でなければならないのです。
 すなわち、季語として用いられている言葉は、俯瞰を伴う感覚、永続的でない感覚によって形作られているというように考えています。

季語の承認

 実際に季語を提案する時に提示した内容は、以下の通りです。

  1. 「季語」の背景的知識、歴史や実用についての情報

  2. 「季語」に実際に触れた感覚、情緒

  3. 例句

 これらを世に問いかけて、ある一定割合の賛意が得られれば、晴れて季語として認められます。
 現代は歳時記の権威が強く、俳句の場合、歳時記に書かれる内容が広く共有されることが多いです。理由を考えてみると、網羅的であること、読者が内容を共有しやすいこと、そして、有名選者のお墨付きであることから、ここに掲載されている言葉が世に流通して間違いがないという信頼があります。もし、歳時記の言うことが間違っていても、歳時記のせいにすれば良いので、アフターフォローもばっちりです。
 社会に季語を承認してもらうプロセスを省略するために、歳時記でも作ろうかという冗談を言いたくなりますが、実際に歳時記を作っている結社もあります。「ホトトギス」の季寄せは有名ですし、「鷹」という結社では、周年記念で歳時記のアプリを作って、随時例句を更新していました。残念ながら、現在はアプリの配信を終了したそうです。

まとめ

 この記事で最も強調したいことは、季語の情感は俯瞰を伴う瞬間の事物なのだということです。人にのめり込むことなく、どこか自分を冷静に見つめる自分がいる。それも、瞬間的に日常の感覚を超えたものへの感慨を詠むものです。その感慨は、生きていることの確認でもあります。
 そして、それが多くの人の共感を得られれば、一つの言葉として命を持ちます。現代ではそれは権威によって、承認されることが多いようです。

これからの展望

 例えば、俳論では、これを「流行」として、記録した瞬間を重ねていくことで見えてくるもの(「不易」)を合わせて「不易流行」と呼んでいる、とも考えられます。瞬間の描写は、万事流転をしなければならない、安定を肯定してはならないという見方もできそうです。まだ結論は出ていませんが、今のところ、「かるみ」というのは、このような安定を肯定してはいけない思想のようなものと予想しています。不思議なもので、人間の能力には限りがあります。安定を肯定しなくても、流転のうちに収まるところに収まるようにはなっていますが、安定を肯定するとその範囲に収まらなくなることが多いようです。

(参照)
・俳句と川柳の区別がつかない

・無季俳句と川柳を区別したい

・無季俳句からの反証と再検討〜無季俳句と川柳を区別したい(2)

・空調服かファンジャケットか〜新季語を作りたい

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