俳句の「ゆゆし」〜命と死〜
死を悼む言葉として、古代からある言葉に「ゆゆし」という言葉があります。初出とされているのは『万葉集』の巻二、新編国歌大観番号199番の挽歌です。最初は死者に対して憚りを含んだ敬意を示す言葉であったのですが、時代が降るにつれて意味が増えていきます。遠慮の気持ちは、「恥づ」のようにネガティブな意味の方向、すなわち不浄へと変化し、程度が「甚だしい」ものになります。さらに時代が降ると、この世のものとは思えない神がかりな人物を生と死の境界として畏敬することから、「この世のものとは思えない」ほど「素晴らしい」になったりと、意味が幅広くなりました。「ゆゆし」は死生観の変化を示す言葉として、良い物差しになっているように思います。
ウェブの古語辞典で意味を見てみましょう。数字が大きくなるほど、時代が降ります。
意味の変遷を眺めていると、立派な人が亡くなり、その功績を讃える挽歌をスタートにして、死を見送ることに対する感覚がどういう経過を辿っているのかが、よくわかります。
俳句のゆゆし
季語とは何かについて考えている時に、ふと「命の文学」という言葉がよぎり、生について詠むこと、死について詠むことについて整理していたのですが、俳句で死を直接悼む表現は難しいなと思い至りました。
死を悼む言葉が原義である「ゆゆし」が、俳句でどのように表現されているのかが気になったので、ちょっと見ていきましょう。
瑠璃句。輪樏(わかんじき)は雪の上を歩く履き物です。生命力に溢れた若者の痕跡を見ながら、雪上の静かな雰囲気にちょっと不吉な印象がよぎります。
勘助句。大根注連は一方が太く、次第に細くなっていくしめ縄で、神棚に供えるのが一般的だそうです。神聖のハレの日の荘厳さと、寂しい冬の村の対比が思い浮かびます。
春夫句。これも神聖の意味合いで作られているようです。今の秩父では、長瀞火祭りとして新暦の3月上旬に祭りを行うそうですが、春を告げる祭りとして宣伝されています。山彦という超越的な存在の加護を得て生命力に満ち溢れていく様子に、俳句らしさを感じ入ります。
春一句。立派という意味合いに読めます。歴史を積み重ねた家の死の蓄積と雪を踏む感触の取り合わせが、冷たさ、寒さを強調します。
例句を読んでいきましたが、(過去の)死の荘厳さもありながら、力強さや生命力にも目を向けて詠んでいる印象を受けました。眼前の死を悼むという性質のものが例句としてすぐに参照できませんでした。生命に関する距離感は、季語と同じような位置付けです。あと、「ゆゆし」は雪や冬との取り合わせが多いですね。ちょっと面白いです。
AIのゆゆし
ちょっとした好奇心ですが、AI一茶くんでは「ゆゆし」を表現できているでしょうか。データベースを調べてみます。
尤度(ゆうど)の高い(コンピュータの理想に近い)句を三句引用しましたが、こっちはダメですね。「ゆゆし」の原義と作意が噛み合ってなくて、言葉が浮いてしまっています。二句目はまさか、AIが人の心を死んだものとして畏れ多いと思っているのか……? ともかく、AIの作句の成長は多作多捨を待つしかなさそうです。
まとめ
記事では、「ゆゆし」の語義と、俳句の用例を見ていきました。
本来は死を悼む「ゆゆし」という言葉が、俳句では死の歴史や命あるものの輝きとして表現されることがあり、俳句は直接的に死を悼むのに向いていないように思いました。
仮想の追悼句を作ってみましたが、死そのものを尊ぶというのは、ちょっと難しいです。悲しみを悲しみのまま表現することは難しく、口語的、散文的に表現するなど、やりようによっては上手くいきそうですが、格調高く作るのであれば、「生の否定/死の仄めかし→悲しい」という取り合わせで作るのが穏当であると思います。
(例句参照)
大型俳句/俳句関連文書検索エンジン
http://taka.no.coocan.jp/a1/cgi-bin/haikukensaku.html
AI俳句検索用ページ
https://ai-issa.jp/
『瀧春一全句集』(1988年 沖積舎)
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