見出し画像

できないあなたへ。

昔、2人きりになると言葉が出てこない。いや、3人のときでもほとんど言葉は出てきませんでした。

そんな引っ込み思案な小学生。
喋ろう、喋ろう、と思うほどに焦ってしまって余計喋れなかった。そんな僕ですがもう今では大人になって、普通に誰とでも喋れています。

さて、僕が28歳のとき。まだ甘ったれた性格は残っていまして、ノマドっぽくカブエで新人賞応募のための小説を書いていたのだけど、あまり人目にさらされるのは苦手でした。

そんなときカウンターに初めて見る女性がいた。

「ご注文は何にされますか?」

それは普通に接客をされている様子だけど、都会のなかで泰然と暮らしている何者かという感じ。まるでドラマにいる人みたいでした。Nさんという女性です。

「こっちとこっちのコーヒーはどちらが飲みやすいですか?」

そんなことを質問したこともないのに僕は聞いていた。

「うーん、はい。これは高地で取れた豆なので、オレンジっぽい香りと酸味があって、もしゆっくり飲みたいならこのブラジルの豆のほうがいいかと思います」

サラリと予想以上の答えが返ってきて、ぼくはそのまま雰囲気に飲まれたくて、味なんて分からないのに「じゃあニカラグアを下さい」と言った。

そこから女性と交流を持つことができて、すこしは甘えはありつつも自分を変えられたと思う。ちょっと意識をして、誰かがいるときは絶対会話をするようにした。
そのとき会社から「店舗の管理者になって欲しい」と言われていたのも、環境としてプラスに働いたと思う。

その頃を思い出すとカッコ悪いこともあったけど、どうにか普通にはなれたはず。今では誰とでも少しは喋れるようになっている。
ズルとは違うけれど、あのときど緊張せずに人と喋れるようになっています。

さて、そんなぼくの職場に「過去の自分に匹敵するレベルで無口な女性」がいて、たまたま先日2人きりで休憩になったときに昔のことを思い出した。
いつもなら、あまり会話は続かないのにそこで少し盛り上がった。

「今年は社員総会があるみたいだね」

「ああ、ほんとに嫌なんです」

「なんとなく分かる。でもホテルの昼ごはんが食べれるのはよくない?」

「それが余計嫌なんです」

「じゃあいいと思えることが一つもないんだ」

「はい」

そこでお互いちょっと笑った。その子に印象にないことだったのでとても鮮明でした。そのときちょっと嬉しくなった。

きっと、小学生だった頃のぼくも、同じようにこちらは意図しないところで誰かを励ませたりしていたかもしれないなと思いました。

だけれど今のぼくではもうそうはできない。「喋るのが当たり前」になっているから、笑うということだけじゃ誰も「なんか嬉しい」なんてならない。
いいとか悪いじゃない。だけど「できない」ことが必ずしも悪いことではないなと思った。それがあなたのままの姿なのだとしたら、そんなあなたであることで、「できる」ということもあるのだということを思った。、
ありのまま。
そういったモノがある。
ぼくは無口な自分が嫌だったけれど、それも一つの個性だったのかもなと思ったのでした。

終わり。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?