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快楽のための技術はデザインだと、私は思う。アリストテレスは反対するけれど。

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第7巻 抑制のなさと快楽の本性を読みます。「暇つぶし」から進化したBMX(Bicycle Motocross)は、遊び、快楽から生まれた新しい競技で、五輪に採用されました。この章ではアリストテレスは、抑制の中について科学的、客観的、普遍的な議論をしようとしています。が、最終的には、抑制のなさと関連が深そうに思われる快楽を排除することはできませんでした。逆説的な意味で、快楽、遊び、人にとっての有用性(、そのための技術であるデザインの大切さ、これについては今の所、アリストテレスは完全否定ですが)を語っている章だとも言えるではないでしょうか。


知識があれば、私たちの行動は決定されるのか?

 少なくともソクラテスは、抑制のない行動が行われたとすれば、それは行為者の無知によるものであると考えていたそうです。

 行為者が自らのうちに知識を内在させながら、それとは別の何かがその知識を支配し、「それを奴隷の様に引きずり回す」などどいうことは驚くべきこと

二コマコス倫理学(下) p98 

 つまり、知識よりも強力なものはないと。一方、抑制によってとどまるべきところを、より善いと信じられたことを行うのは、行為者が信念を持っているからだという人々がいます。アリストテレスは、その話を引き合いに出しソクラテスには完全には同意しません。

 さらにアリストテレスは、ソフィストの例を取り上げます。彼らは、信念もなく、議論のために作り上げた通念に反した結論に聴衆を誘い込みます。アリストテレスは、「抑制のない人がそうした行為をするのは、知識にそむいてのことではなく真なる信念にそむいてのことであるという主張は、じつはここでの議論とは関係がない」と、この議論を切り捨てます。

有用性・快楽を導く知覚的な知識

 アリストテレスは議論をしていませんが、ここでは、「抑制によってとどまるべき」とはどの様なことなのか、考えたいと思います。ある状況で、抑制すべきか、そうでないかは、科学的知識によるところもありますが、その時代の慣習・常識に関係するという場合も多いと思われます。

 「抑制によってとどまるべき」かどうか、ということは、科学的知識に基づく真偽では捉えきれず、個々人にとっての有用性や快楽を考慮する必要があります。特に、複雑な政治の世界では、個々人の主観から洞察が生じ、それらが方向性を見出します。その場合、科学的知識は部分的にしか役に立ちません。

 アリストテレスは、知識と信念について普遍個別の観点から、議論を続けます。知識とは異なり、抑制にとどまらず身体を動かすのは欲望であり、信念ではないといいます。欲望が生じている時にあるのは、本来の論理的な知識ではなく、知覚的な知識である(にすぎない、と言いたいに違いない)と結論づけます。

快楽には技術は必要ないのか?

 アリストテレスは、有用性のことは言及していません。また、真偽を見出すための知識からは技術が生まれるが、快楽(私的には有用性)には技術は関係ないと断言します。快楽苦痛について考察するのは、政治であり、彼らは目的のデザイナーであると言います。快楽は、最終目的に至るための知覚される生成過程です。そのため、政治はそれらを考慮して目的を作りますが、その過程は、アリストテレスにとって技術や知識の範疇とはみなされない様です。

 一方、私は「最終目的に至るための知覚される生成過程」のための技術が必要だと思います。それを政治任せにせずに、知覚的知識を共有し、目的に向かって活動すること、すなわちデザイン活動のための技術が求められていると思います。これは、MarchのいうところのTechnology of foolishness, 愚か者の技術であり、遊びのための技術です。そこから、私たちの思いもつかなかった奇妙な未来が作られます。

 ソクラテスからのギリシャ哲学では、すでに科学的知識重視になっています。BMXを作り出した人の遊び心がある限り、私たちの未来は明るい。今後は、それについての研究や理解が必要です。というわけで、今回はアリストテレスの苦悩(抑制のなさを科学的に議論することの難しさ)から、場外の議論に広がりました。


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