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知性か快楽か?品位のある人に必要なもの

 前回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第8巻 愛(フィリア)について を読みました。愛には善に基づく愛快楽に基づく愛、そして有用性に基づく愛の3つがあるということでした。今回はその続き第9巻 友愛(今回は、元の朴氏の訳本)です。


人間にとって大切なもの、それは知性?

二コマコス倫理学」第7巻 抑制のなさと快楽の本性でソクラテスが、生きていく上で、に勝るものはないと考えていたことがでてきました。この巻には、アリストテレスも同様に考えていたことがわかります。

品位ある人は、自分にとっての善、および善に見えるものを願望し、かつ行い、しかも彼がそのようなことをするのは、自分自身のためにである(「自分自身のために」とは、「思考的」な部分のために、ということであって、まさにこの部分こそ、それぞれの人自身であると考えられるところのものである)。

「二コマコス倫理学」第8巻 p414

 「ひとりひとりの人間とは、各自におけるものごとを考える部分、とりわけその部分である」p415)と、いうことのようです。知性に重きを置くという点では、アリストレテスもソクラテスと同様ということです。

 また、品位のある人は、自分自身と過ごす時間を楽しみます。そして、自分自身とまわりについて自分ごとと受け入れ、起こったことに対して後悔はしない。友に対しても、自分に対するような態度を取るのだといいます。なぜならば、友とは別の自己なのだから。

 さらに、品位があり、そのため自然と自己を愛する人と、自己愛者との比較をしています。前者は、知性に基づいて生きること、美しいものを要求するのに対して、後者は、情念に基づいて生きること、利益になるとおもわれものを要求すると言います。また、品位ある人は、なすべきことを実行する人だと強調します。

品位のある人と美しいもの

 さて、ここで議論されている美しいものとはなんでしょうか?金銭ではなく大きな善、名誉や官職ではなく、美しいもの。品位のある人は、自分自身のために偉大で美しいことを選択するのだ、と。

 品位のある人が、なぜ友を助けるのかということの理解のために、アリストテレスは、作品の制作者を例に出します。品位のある人にとって、友は、彼・彼女の美しい作品であって、制作者ならばその作品に愛着を寄せるのは当然である、と。

知性が全てなのか?美しいものとの関係は?

 品位のある人にとって、自分自身の追憶や希望は知的な思考の対象「観想の対象」です。彼にとっては、それらが苦しく、同時に心良い(=美しい?)ことです。知的かつ美しい選択をしているため、品位のある人は後悔しない人だといいます。

 一方、アリストテレスは、プラトンによって作られたアカデミアでの議論にも疑問を持っています。

今日の人々にとっては、哲学は数学になってしまっている。


『形而上学』第1巻

快楽の活用?

 知性を人間の基礎とし、それを極め美しいものを追求する人を品位のある人とするならば、彼らは数学の定義に従って生きていく様な味気ない人生をおくるのではないでしょうか?一方、フランスの現代思想家のフーコーにとって、人生はもっと味わいのあるものです。彼は、と、主観性から人をとらえます。

 アリストテレスも、第7巻 抑制のなさと快楽の本性で見たように快楽を否定することはできませんでした。ここでは、美しさと快楽との関係も議論はされていません。美しさの中には、遊びの要素もあるかもしれませんが、知性とコンビの美しさは失敗を許さない少し冷たい感じがします。一方、フーコーは快楽の「活用」を論じます。人には、もっと気ままな楽しみもあってこそ、生きるということなのではないでしょうか。もちろん、失敗もするし後悔もする!

北林さんからのネタ話:
遠仁者疎道 おにはそと
不苦者有智 ふくはうち

安西さんからのネタ

https://www.youtube.com/watch?v=DgMJq67ZOwE

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