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思慮なしに徳はありえず、思慮が備わると全ての徳が備わる

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第6巻 思考の徳と正しい道理を読みます。この巻を読むと、ソクラテスやプラトンと異なるアリストテレスの温かさが感じられます。機会があったら読むのに、この巻おすすめです。


超過や不足ではなく中庸のための「正しい道理」

 アリストテレスは、この間巻で中庸の深掘りをします。まず、魂の徳には、性格の徳と、思考の徳があり、この巻では後者を議論します。魂の理性的な部分は、数学のように他の仕方ではありえない諸原理をもつものと、ありうるもの(唯一の正解ではなく多くの可能性がある)行為制作の領域があるといいます。

  • 魂:理性(ロゴス)→他の仕方ではありえない諸原理をもつもの、ありうるもの(行為・制作)→機能

  • 魂:理性を欠いた部分(アロゴン)

 魂の行為と真理を支配するのは、知覚・知性・欲求であり、欲求から善い行為を選択していくのが、正しい道理だといいます。

  • 人間→欲求・特定の目的のための道理→選択(欲求に即した知性・思考に即した欲求)→善き行為

魂の真理状態:技術、知性、学問的知識、知恵、思慮

 アリストテレスは、技術、知性、学問的知識、知恵、思慮が魂の真理の状態であるといい、後者の3つが最終的なものだといいます。その他に、見解がありますが、見解、思いなしは誤りも含む(必ずしも正しいとは限らない)ため、真理の状態とはいえないとします。

 他の仕方でありうるものであり、制作(作られるもの)の中の技術は、真なる理論をそなえた制作に関わる魂の状態であるとします。それは、人間の作るもの、人工物です。一方、行為(行われるもの)である思慮は、人間の善にかかわる行為をするところの道理をそなえた魂の真なる状態とし、例として経験を積んだ個人家政術政治術(審議術・司法術)を上げます。思慮は、魂の理知的部分であり、思いなす部分の徳と位置付けられます。

 この技術と思慮には目的の位置付けで違いがあります。技術は制作であり、そこでは制作そのものと目的と異なります。しかし、思慮の行為の領域では、行為の目的は行為そのものと同じ(同じ領域に含まれている)といいます。よって、目的を作り出す行為が、制作を支配していることになると。

見識、理解力、思慮、知性の不可分性

 見識とは、品位ある人(思いやりのある見識を備えた人)の正しい判断であり、思いやりのある見識とは、品位ある適正な事柄を正しく理解し判断する見識です。また、知性は思考の要です。そのため見識、理解力、思慮、知性は、分離することができません。これらの行動は、個別の事柄から始まります。そして善い判断を積み重ね、最終的な目的となります。つまり普遍は個別的な事柄から導き出されるのです。そのため、個別的な事柄についての知覚をもたねばならず、この知覚こそが知性であるといいます。

善く生きるための思慮と技術と知恵と知性の関係

思慮と知恵は人生に必要か、それらの有用性に関する疑問と考察

 アリストテレスは、思慮と知恵の有用性を問います。

法によって規定された事柄を、非自発的に、無知によって行うような場合、単に才能がありそれが実施できるのでは十分ではない。もし目標が美しければ才能は賞賛されるが、そうでなければ単なる狡猾である。よって、善き人、思慮深く人でなければ、目標は明確でないのである。

第6巻 12より抜書きと著者による改変

 このように、才能のみでは十分ではなく、思慮による善い目標を作り出すことが必要なのです。また、ソクラテスが徳=思慮とし、思慮はロゴスのセットだとしましたが、アリストテレスはそれに追加します。本来の徳は思慮なしには生まれない。徳とは道理を備えたものであり、思慮なしに徳はありえないとします。そして、思慮が備わると、全ての徳が備わると。

 徳は目的を定め、思慮は目的に至る事柄を行わせる。この2つは不可分であり、その実行のために技術、知恵を活用するのです。

倫理と行為・制作(著者コメント)

 倫理は、行為と制作と深く関わっている。現在デザインとアントレプレナーショップを研究しているのだが、この倫理の概念が気薄であることが気になる。デザインでは、制作することは、社会的責任を負うということが言われている。一方、起業家は、わざわざソーシャルアントレプレナーという用語があるくらいに、この倫理の概念は分離されているのではないか。

 考えれみると、これまでのGoods-Dominant logic(GDL)的な見方では、倫理的な思想は市場原理の陰に隠れており、最低限満たすべきものとされていた。それが、Service-Dominant logic(SDL)になると、組織と社会が不可分になり、否が応でも倫理的な視野で事業を見ることが強いられる。このアリストレテスの時代から、重要視されている倫理を再認識することが必要なのだろう。 

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