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どのようにしたら正しく生きられるか?相互の等しさを基本とする愛で答えは出るのか?

 今回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第8巻 愛(フィリア)について を読みます。愛には「善に基づく愛」、「快楽に基づく愛」、そして「有用性に基づく愛」の3つがあると議論を始める巻です。アリストテレスは、快楽に基づく愛は、一層本物の愛に似ている。なぜなら、愛のうちに自由人らしさが多く含まれているから、といいます。彼の考える愛を読み解いていきましょう。


愛は計算づく!等しい交換が基本

善に基づく友人は「共に生きる」間柄である、で始まる第5章には以下の様な箇所があります。

「愛は等しさである」と言われていて、これは、善き人々のあいだの愛にこそ、もっともすぐれてあてはまることである。

「二コマコス倫理学」下巻 p213-214

 愛がなんだか計算づくという感じで面白いですね。さらに、第6章には、

愛は、相互の等しさにおいて成り立つものであると言える。なぜなら、双方の側から同じものが生まれ、人々は互いに対して同じものを願うか、さもなけでば、例えば利益の代わりに快楽を得るというように、或るものの代わりにそれと別のものを交換するからである。

「二コマコス倫理学」下巻 p220

 愛が、互いに同等のものを生むか、同等のものとの交換であり、立場の違いによって双方に相応なものを送ることだと、いいます。正義と愛は似ているが、それらの等しさは異なります。正義の場合は、1. 価値に応じたもの、2. 量に応じたものだが、愛の場合には、第一に量が大事だと。

愛に関する不平は、お返しの内容

 愛には、してくれたら、そのお返しをする、それも等しいお返しをすることが基本です。愛に関する不平・不満は、そのお返しによって、もたらされます。

よくしてもらう側の利益を尺度として「見返り」が測られ、その利益を参照してお返しがなされるべきなのか、それとも相手によくしてあげる人の親切そのものを尺度として見返りが測られ、それを参照してお返しすべきなのだろうか?

「二コマコス倫理学」下巻 p261

 ここで、アリストテレスは、有用さに基づく愛の場合には、相手の指標でお返しを考えるべきだと言います。Customer centeredですね。一方、善さ、徳に基づく愛の場合には、送る人の尺度でよいと。なぜならば、相手は、その人を友とするかどうかは、彼・彼女の選択だからと言います。

共同体の類比

 個々人のやり取りだけではなく、アリストテレスは共同体、国の種別にも言及します。王制、優秀者支配制、財産査定制の3種と、それらの堕落形態、僭主制、寡頭制、民主制をあげます。最後の民主制については、

民主制においては、はるかに広い範囲で存在している。なぜなら、人々は平等なので、ここには多くの共通のものがあるからである。

「二コマコス倫理学」下巻 p249

 そのほか、男女、奴隷と使用者などの支配の類型が記載されています。アリストテレスであっても、奴隷に関しては、人間の種類が異なる、女性は男性に支配され、相応しい事項のみ行うなど、その時代の常識から逸脱はできなかった様です。これは、財産査定制の堕落形態としてみなされている民主制についても同様です。

 どのようにしたら正しく生きられるか?と、第12章で問うていますが、それに関する考えは今後に持ち越しの様です。

複雑系として人間を捉えるアリストテレスの愛

 アリストテレスは、愛を、人と人とのインタラクションとして捉えている様です。そのため、そこで交換される量や内容に注目しています。この愛は、人にとってかけがえのない友を得るための活動です。人は、友なく生きることはできない、つまり、人間は関係性の上に存在するのでしょう。

 この考え方は、複雑系の哲学と関連します。ニュートン力学の確立から、力学的自然観が支配的になりました。その後、産業革命後には、機械論は進化的自然観に、原子の分解可能性の発見と共に、原子的自然観から階層的自然観に移りました。現在複雑系科学の理解が進む中で、「存在の科学」から「発展の科学」へと移ってきています。この複雑系の科学に対応する哲学は、関係性を基礎に置きます。存在の基礎単位と思われた原子でさえ、分解可能でそれらの関係性によって性質を見出しています。このことを鑑みると、アリストテレスの愛は、まさに関係性を基礎にしたものだと思われるのです。

 今後の流れを予想するに、「どのようにしたら正しく生きられるか?」(「二コマコス倫理学」下巻 p256)ということは、人自身にかかっているということではないでしょうか。しかし、この問い自体には少し問題がある様です。正しくではなく、本来は善くではないでしょうか。それにしてもこの続きが楽しみです。

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