見出し画像

この2年間余りを振り返る。本当の自分と向き合う機会をくれたトランジションとは何だったのか。

これは単なる『退職エントリー』の note ではない。自分がこの半年間、ふと気づいた時に、トランジション(人生の転機)に脚を踏み入れた瞬間があった。物事に終わりがあれば、始まりがある訳で、今は ほんの些細な間だけども、空白(ニュートラル)で心を満たそうとしている。トランジションの詳細は、👇この書籍を見て頂くとして、本当の意味で「働き方改革」を意図的に実践しようとしているのかもしれない。

内製チームを立ち上げた後の容赦ない末路

想えば 2018年末、WEB制作の内製チームを0から作る。という名目で、意気揚々として入っていたC&R社を後にした。2015年11月、それまで 鬱とメンタリティの回復に挑み続け、志半ば 求職活動をひっそり行っていた私は、Wantedlyから広告の運用ディレクターとして応募していた。

「石川さんじゃないですか!こんなところで会うなんて奇遇ですね。ほら、私ですよ、篠崎です。」
『篠崎...?あー、あの、日本ディレクション協会の。』
「石川さんならこの仕事じゃなくて、もっとピッタリな役割ありますよ!」

そこで、オファーされたのが、C&R社初の WEBの内製チーム「WEB STUDIO」のコアメンバーとしてのJOINだった。これには、迷う余地は全くなく、自分のキャリアプランとして出直すには最高のきっかけとなった。

ただ、広告代理店からの仕事に重きをおいていた案件獲得に未来はなく、直請けの比率を挙げることさえままならなかった営業体制に疑問をもつのにはそれほど時間も経たなかった。

3年経ったある日、当時のDivisionMgr から、こう告げられた。

「石川さん、今度良い案件を紹介できるから、職歴書の棚卸しておいて。」
『??? は、はあ、分かりました。』

(な、なんだ。何が起こっているんだ… 何故 レジュメを用意する?)

いつも見ている風景が何か違うと感じた時、自分の勘が外れたことはない。

毎月、誰かしらチームのメンバーがアウトソースされていた現実を目の当たりにした時、そうか、自分の身にも降りかかってきたのかと察した。

会社って、組織って、何だろう。これを知ったその時から、入った時の高揚感は薄れ、一緒にやっていく意味がないことを悟った。

2018年末、C&R社を離れる理由が不可抗力だったとはいえ、自分の意思とは別なところで、次に向けてやらなければいけないことが出来たと心に刻み込んでいたのは確かだ。ただ、あくまでも自分から臨んだことではなかった。

個人の高みを目指そうとして藻掻いていたあの頃

当時、給与も上がらず残業続きで、うだつが上がらない日々を送っていた私は、職場的に禁忌だった副業を申請して、少しでも稼ごうという意思が芽生え始めていた。2018年6月に個人事業主を開放し、手始めに「WEB幹事」への記事出稿や、制作会社のデータ登録をやっていた。

しかし、しかしだ。仕事をしてから自宅でノートPCを広げるのが、どれだけ辛かったか。。働き方自体にも問題はあったと思うが、これで本業+副業という自分の鬼に金棒ルーティンは、脆くも崩れ去るのである。

フリーランスとまでは行かずとも、業務委託で繋いで本業を探せばいいか。と、ドメインを取得し、WIXで簡単なサイトを作り、STUDIOでポートフォリオ的なものをまとめて臨んだ2019年1月、自分の本意ではない契約満了という幕引きに、何ともいえない焦燥感が漂っていた。

色々な人に協力を仰ぎ、またこれまでの付き合いからお話しを伺ったこともあった。会う人会う人良い人たちばかりで、振り返ると感謝の言葉も語り尽くせないほどだ。それからというもの、急転直下で決まったのは、質問箱を買収して勢いがあったジラフ。Twitter採用という流行りに乗っかったと言えば、そうなのかもしれないが、一度は断られたものの キープインタッチして連絡を取り合っていた矢先のことだった。

事業会社へのコミットは、あっという間の幕引き

「石川さん、サッカー好きなんだ。私も実はサッカーやってたんですよ。」

そう、切り出して始まった当時のプロダクトオーナー 村田さんとの面接。一括査定サイト「ヒカカク!」のディレクター兼スクラムマスタとしてJOIN(形式上はPO候補としての採用)したのは それから1か月後のことだった。

ジラフで過ごした試用期間(6か月)と1か月。少ない人月と言いつつも、事業会社の中でひとつのプロダクトやサービスにコミットしたい。という強い思いは、体現できたと思っている。数少ない成功したスタートアップの部類には入るのではなかろうか。

質問箱、ヒカカク!、マギ。主な事業はこの3つで、自分が在籍していた当初と比べると資金面でもだいぶ安定していそうな雰囲気がある。

そんな夢も希望もある会社を、何故 離れることになったのか?

ベンチャー界隈やスタートアップの人材は、流動の移り変わりが激しく、日々Twiiterや、facebookに「現職を退きました」の告知だったり、退職エントリーが note に頻繁にアップされる。自分も同じ憂き目にあったのは言うまでもない。

2019年7月某日、急遽 村田さんから 1on1 の場がセッティングされた。ただ、ひとり人数が増えている。ん? 何故か、人事が増えて 2on1 になっているぞ。確実に雲行きが怪しい。

「石川さん、実は 今月末でジラフを辞めるんですよ。」
『ま、また急な話しですね。。分かりました。』

ここまでは、普通の展開。

「で、、言い難いんだけど、なので、石川さんもこの試用期間で...」
(は???なんで、巻き込まれ事案になってしまうんだ。意味分からん)

『いや、そんなことを急に言われても困ります。』

そりゃ、そうだ。人の人生は一度きりだ。勝手にあなたの都合で、職務を切り離そうとする展開は意味不明過ぎる。それを分かっていて自分を雇ったとしたら、無性に腹が立ってきた。

「PMとかディレクターは、直ぐに見つかるから大丈夫ですよ。」
(そういう問題じゃないだろ!!!)

取り乱しました。少し落ち着こう。村田さんは 人当たりがいい 且つ 悪く言えば ぶっとんでいて、組織の仲間からも慕われていた頭の切れる人だ。ひとつこの場を借りて言わせて貰えれば、最終的にジラフに誘ってくれた恩もあるし、立場が違えどサッカーという共通言語を持ち、新規事業への熱量あるパッション、とても興味惹かれるナイスミドル。誉め言葉しか浮かばないのは、村田さんが、好きなサッカーを通じて、ビジネスプロデューサーとしてベルギーのサッカーチームにいるからだ。

今のご活躍に嫉妬にも近い感情を抱いているといえば嘘になるけど、本当にやりたいこと、叶うのならば実現したいこと、自分が本気で取り組めることってなんだろう?と気づかせてくれたのは、村田さんだったかもしれない。

その裏側で心を揺さぶったサードプレイスとの関わり

既に、トランジションの波は少しづつではあるけれども、身近なところまで近づいていたのだろう。コロナ禍という一大イベントが沸き起こる迄、数々の年次の大型イベントの運営スタッフとして参加し、スポンサーを集めたり、当日のボランティアスタッフと一緒に、会場を盛り上げたりした。

"コミュニティ"というワードに出会ったのも、この時だった。ヌーラボが提供する「Backlog」という管理ツールのユーザーグループがあり、その運営チームに招かれ、会場探しやスピーカーの招致、compassを使った集客などオフラインマーケを通じてあらゆる手段を実践出来た。

また、高円寺に通い始めるのも、2019年6月以降の話し。"小杉湯となり" という3階建ての建物が、2020年3月OPENするということで、2019年10月着工した当時、銭湯ぐらし主導の元、イベント部が立ち上がった。

ちょっと話しを前に戻すと、その村田さんが言っていたひと言が、妙に胸に突き刺さって いつも思い出される。

「朝会は覇気が感じられないし、休むのはどうしちゃったの?勿体ない。」
『まだ環境に馴染めてないからだ思います。後、急に休みを入れるのは気候の変化で偏頭痛持ちだからです。。気合いれます。』

「いやさあ。石川さん、Twiiterや、コミュニティ見てると楽しそうだよ。」

そうか。外にはそう見えているのか。自分は、仕事と家庭とは違ったところで自己肯定感を得ようとしているらしい。サードプレイスとはよく言ったもので、第三の場所があるからこそ、人は幸福感を感じることを最近知った。

組織とは一体何だったのか。頼られるもどかしさの裏に欠けていたひとつひとつの対話

2年前の9月、まだ小学校2年生の息子を抱えてた私は、急な出来事に対してどうにか穏便に済ませたかった。それもそのはずで、学童の待機問題があったからだ。会社を退職した次の月から、2ヶ月間のうちに次の職場を探さなければ、問答無用で待機(低学年優遇処置で後回しにされる)されてしまうというルールがあった。

1度、C&R社から間をおいてジラフに転職する際、役所と連携することをすっかり忘れていたため、半ば強制的に追い出されたことがあったので、今回ばかりは慎重にならざるを得なかった訳だが、、運がいいことに、元ジラフOB(現職の会社)からの案件紹介により事なきを得ることが出来た。

ただ、そうは問屋が卸さない。それから何があったかは敢えてここでは伏せておくが、正直 もうちょっと会社とは組織とはカルチャーは風土はどんなところだったのか先に聞いておきべきだったと常々反省している。JOINしてあってはならないことが起きてしまった以上、静かに見守るしかしないし、自分があるべき状態に戻してくれるまで待つしかなかった。

組織とは何なのか。改めて解いてみたい。皆んなが同じMISSION・VISIONを志して前を向いて初めてやりたいことが実現できるロードマップを描けるはずなのに、だけど どうしてだろうか。ひとりの考え方 ひとつとっても違う方向に転がっていってしまう。人事や採用のオンボーディングがしっかりしてさえすれば、こうはならなかったのかもしれない。けれども、それは結果論であって、もっと自分の方でも状況把握をしておけば、こんなことにはならなかったのかも分からない。

間違いを犯さないためにも、先ず相手を知ること。特徴や強みを把握することで、活躍できる場所への配慮も出来るし、最低限 スキルや経験を活かせられる職務を全うさえできれば、それだけで良い。何でも出来るからと言って頼まれたことが、全てやりたいことかと言われるとそう言うことじゃない。

じゃあ、知るためには何が必要か?それは、対話をするしか答えは見いだせないと思う。このようなコロナ禍だからといって、人はツールさえ使いこなせれば、時間の壁を飛び越えて会話することはいとも簡単に叶えられる。もっと互いを知る時間を、会話をする時間を作るべきなんじゃなかろうか。

今後の未来のことを少しでも語っておこうと思う

さて、時間を現実に引き戻すと、、この note の筆を取っているということは、未だ次の働き先も具体的には決まっていないのだろう。今の現職を離れようと思ったそもそものきっかけは何だったのだろうかと思い起こすと、結局 起こった事実の塵も積もなのだ。仕事は信頼関係が大事だし、自分のやりたいこと叶えたいこと実現したいことの未来に少しでも寄り添ってくれる会社や組織が、とても有難いし大切と思える。

働き方ひとつとっても、自分の考え方はこうだ。フルコミット=本業の職務を全うできる場所を探すこと。それが第一ミッションであることに変わりはないけれども、副業を何社か抱えることで、見えてくるもの寄り添えること幾分か分かってくるはずで。今は、興味のある数あるポジショニングから選ばせて頂いた会社さん企業さんと面談する機会を得ている。

はっきり言えることは、10月から、どういうことをしてどのような時間を過ごしているのか予想も付かないということ。キャリアの軸としては、BtoB SaaSの プロマネや、マーケター、果てはBizDivだったり、採用も睨んでいたりする。裏の軸としては、イベント企画や配信、コミュマネといった個人活動の延長線上に近いところに重きをおいて、地域や行政と絡んだプロボノ参加や、SDGsに力を入れている企業へのアプローチ、場作りの取り組みを提唱しているNPOへの協力など、新しいことへの興味関心は潰える暇がない。

その中の答えとしては、自分が必要とされる場所に行く。ただ、それだけ。

振り返ると、ところどころでトランジションと思える瞬間があった。今回の次なる挑戦への布石となったのは、間違いなく信頼している友人や知人の日々の行動であったり仕事に対するひたむきさであり、自分が本当に何をしたいのか呼び起こしてくれた数々の応援メッセージでした。

「石川さん、今 そんなことしてるんですか?らしくないですね。」
「石川さんなら、もっとやらなきゃいけないこと沢山あると思います!」
「運がない時もありますよ。元気出していきましょう。」
「いろいろありますよね。なかなか厳しい時期ですが頑張って下さい。」
「それは、憔悴し切っちゃいますね。今は、少しでも充電しましょう。」

だから、ここで躓くわけにはいかない。少なからず共に悩んで思いを共感してくれた人たちに対して、全身全霊をもって生きる活力を振り絞りたい。

この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?