小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第15話

1月15日


熱は37度台になり、体は少し楽になった。
起き上がる途中の姿勢が喉に絡みやすいこと、そして痰を出すにはうつ伏せの姿勢がいいとわかった。
そのため、ずっとうつ伏せで痰を出し続けた。
点滴のおかげか、昨日よりも痰が切れやすい。どんどん出てくる。
ただ、何を食べても飲んでもむせるのは同じだった。
なめるだけならむせないことにも気づいたので、はちみつ湯も箸につけてなめるだけにする。
ひたすら箸をなめる。
虫になったような気分だ。

薬もむせてしまって何度も失敗するので、嚙み砕いて少しづつ飲んだ。
割ったらいけないのかもしれないが、仕方がない。
飲み込むとはどういうことなのか、わからなくなっていた。

係長から携帯電話にメールがあった。
取引先から、私がやっていた作業の報告書を途中でいいので送ってほしいと言われたので、PCのどの場所にあるか、教えてほしいということだった。
会社のPCはすべて金沢にある事業所に移動してあり、
金沢に二次避難している人の一部はすでに金沢で出勤しているそうだ。
私は場所をメールで連絡し、発熱したことと、体調がまだ悪いことも伝えた。
お大事にという返事がきた。
こちらで作業できない分をフォローしてくれて、ちょっとほっとした。
二次避難している人は環境に慣れないし、大変だろう。

だけど、私はいつまで会社に行かなくてもすむのだろう。
会社に行くと、片付けはできず、仕事にかかりきりになる。
私が今、一番怖いのは会社に行かなくてはいけないことかもしれない。
自営業で、お店が火事で焼けた人、壊れた人は仕事ができない。
他にも仕事をしたくても、できない人は大勢いる。
贅沢かもしれないが、まだとても仕事ができる気はしなかった。

今日、隔離期間が終わった夫婦がいて、家に戻ると言っていた。
私もその気持ちはわかった。
このような状態になって、避難所に居続けたいと思わなかった。
夫に、体が限界なので、二次避難できないかとメールで聞いた。
でもそれはできないと言われた。
体が限界なら病院に行けばいいのではとも言われたが、
入院するわけじゃないのに、病院に行けるわけがない。
夫と息子を置いて、二次避難はできない。
私に選択の余地はなかった。
前向きに考えるなら、息子が他の場所ではできない経験をして、
それによって生きていくのに大切な何かが身につくかもしれない、
ということだった。
大学受験の勉強は完全に遅れてしまうのだが、今、息子に何か言えるような状況でもない。

Kさんは二次避難に申し込んだそうだ。時期は未定だと言っていた。
うらやましいと思った。

昼ご飯は五目ご飯(多分アルファー化米をパックに詰めたもの)とカップのスープ春雨、みかんだった。
ご飯は私の分も父に食べてもらい、みかんとスープ春雨は元気になったら食べるためにとっておく。

隔離期間が終わった人は出て行ったが、またすぐに新しい人が入ってきた。
お母さんと小学生の男の子だった。
二人とも熱はそれほどないようだった。
お母さんは友達と電話して、体温計もなく、薬は熱さまししかない、のどの薬もないと怒っていた。
本当にその通りだった。
避難所に居続けられるのはありがたいのだが、
地震前の状態が普通だと思うと、あまり良いとは言えなかった。

赤十字の人が入れ替わり、関西のW県になった。
フレンドリーさがちょうどいい感じで、好感が持てた。
(前の人が悪いわけではない。)
そして、隔離期間を印刷して持ってきてくれた。
名前と日付が開いていて、そこに油性ペンで書いてある。
父は19日、私は20日に制限解除になっていた。
私のほうが、熱が高かったからだろう。

ふと思いついて、みかんの汁を絞って、はちみつ湯に入れた。
たまたまうまくいって、ちょうどよい加減でおいしかった。
元気になってもまたやってみたい。
今はなめるだけだけど。
ますます虫になったような気分だ。

何もすることがないので、父はずっとスマホを見ていた。
家庭科室には各テーブルにコンセントがあるので、充電もしやすかった。
私はなめるか、痰を吐くかどちらかだ。

夜は笹寿しと炊き出しの豚汁だった。
食料事情が良くなってきたらしい。
私はもちろん食べられないが、食料事情が良くなってきたことはいいことだ。

今日も痰を吐きながら寝るので、あまり眠れなかった。

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