車椅子おばあちゃんのルーツ4
「普通の学校へ行きたいなぁ」
「歩く訓練をやめたい」私の人生での初めての挑戦。
ところが、私の担当のお医者さんは怖くて有名でした。
みんなは密かに「はっかい」(孫悟空に出てくる豚さんです)というあだ名で呼んでいたほどです。
なので、直接お願いするのはとてもじゃないけど恐ろしく、
とうてい無理なことでした。
そこで、手紙を書くことにしました。
手紙なら、怖い先生と面と向かうことはありません。
「先生へ、私は歩けなくてもいいので、車椅子の練習をさせてください。もうアバラートを着けて歩く訓練をするのは嫌です」
というような感じだったと思います。
夏休みに入る直前に手紙を出しました。
夏休みは家に帰れるので、先生に合わずにに済みます。
家に帰れることは、とっても楽しみでした。
すると、夏休みのある日、その怖い先生から、家あてにお返事をいただきました。お手紙には、とても優しい言葉で「あなたの気持ちはよくわかりました。それならこれからは、歩く訓練はやめて、車椅子の練習をしましょう」と書いてありました。
あまりにも優しく書かれていたので驚きましたが、「ちゃんと言えばわかってもらえるんだ」という経験をこの時初めてしたのではないかと思います。
夏休みが終わり、園へ戻ると、もう歩く訓練はしなくてよくなりました。
あの重たい、カッコ悪い、苦しい「アバラート」とはおさらばです。
そして、車椅子でスイスイ動ける自由を手に入れて、私は小学校五年生になりました。
車椅子で自由に動けるようになった私は、同じように障害を持った友達と素敵な先生たちに囲まれて、治療や訓練や勉強に楽しい毎日を過ごしていました。母が「水を得た魚のようだった」と話してくれたことがあります。
母宛ての手紙にはいつも、「あれとこれとこれを買ってきてください」と、欲しい物をただただ書き連ねていたようでした。
このころ、母は借家を改造して大衆食堂を始めていました。
三十代になったばかりのはずです。今でいうところの「起業」ですね。
日曜日には私からの手紙に書いてある物を買いそろえて、必ず面会に来てくれました。母は本当に頑張っていたと思います。
どうしてそんなに頑張れたのか、もっともっと話を聞きたかったと悔やまれて仕方ありません。
さて、「私は勉強ができる方だ」と勘違い野郎の私は調子に乗っていました。障害の軽い友達は家に戻って普通の学校に通うことになり、次々とゆうかり園を離れていきました。
そして私は「いいなぁ」「私も家に戻りたいなぁ」「普通の学校へ行きたいなぁ」と思うようになりました。
またまた何か言い出しそうです。
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