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車椅子おばあちゃんのルーツ2

ケ・セラ・セラ

「ケセラセラ」と母はいつも笑っていました。
「ケ・セラ・セラ なるようになるわ 先のことなど 判らない」と。
当時流行っていた歌の歌詞です。
母の口癖でした。

3歳の長男を親戚に預け、私にかかりきりの母を、親戚みんなで支えてくれていたと聞いています。けれども、必死の治療もかなわず、私の手足には障害が残ってしまいました。
周りの人たちは母が自殺するのではととても心配していたとのことです。
ところが母は、「だってしょうがないじゃない、なるようになるさ、ケセラセラだったよ」と笑っていました。
私のこのスーパーハイパーポジティブシンキングは、母のDNAに他ならない証拠です。
 
私には、大切な妹がいます。
小さい頃から障害のある方たちには、一人っ子や末っ子の方が多いように感じます。でも、母は妹を産んでくれました。お産婆さんが言った言葉に母は決心したそうです。
「もし女の子だったら、絶対この子の力になってくれるよ」と。
手のかかる私がいるのに、母は三人の子供を育てる覚悟を決めたのです。今、その妹は、本当に私を支えてくれています。母の勇気に感謝します。

父は、年の離れたお兄さんやお姉さんにいつまでもかわいがられ育った
甘えん坊さんのようです。
動物が好きで、若い頃は捨て犬や捨て猫をよく服の中に入れて帰ってきたと
母が話していたのを覚えています。
なので、私の家や親戚の家にはいつでも犬がいました。
鈴虫をたくさん飼ったり、インコや文鳥、ジュウシマツなど小鳥もたくさん飼っていましたし、庭の木々にはミカンなどが枝先にさしてあり、野鳥が集まってきていました。
そんな家族と共に、私は幸せな環境で育ちました。

近所の子供たちで我が家はいつも大騒ぎで、笑い声が絶えませんでした。
 「もう、一日何回箒を持たせればいいと思ってるの!」
お母さんが怒りながら、水で濡らした新聞紙をちぎって畳の上にばらまき、箒で掃いています。
私の家には毎日近所の子供たちが集まって遊んでいたのです。
私は足が悪いので、私の家が子供たちの遊び場所になっていました。
兄や妹の友達も集まってくるので、それはそれは大騒ぎで、毎日がてんやわんやでした。母は怒りながらも、いつも子供たちを家に上げて、自由に遊ばせてくれていました。
友達はたくさんいました。

 そして、私も小学校へ上がる時がやってきました。
同い年のお友達のところには、役所から入学のお知らせが届き始めていたようです。しかし、私のところに来たお手紙には、「就学免除」と書いてありました。小学校は義務教育ですが、足が悪いから学校へ行かなくてもいいですよという法律があったのです。
母はどんな気持ちだったのでしょう。


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