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生きる意味 ☆63

たぶん、

「生きる意味は何だろう」なんて考えても何も出ない。

でも、

意味を作ろうと思えば、
いくらでも創ることが出来るのが人間だ。
とも、思うのだ。

『赤毛のアン』で、アンは初めて家に向かう途中、白い花の咲くリンゴの並木道を通り、そのあまりの美しさに、感動し、しばし黙り込む程だった。

あれは何という名前の場所かとマシュウに尋ねたが、「並木道だ」との答えに、

「あそこを並木道なんて呼んじゃいけないわ。そんな名前には意味がないんですもの。 こんなのにしなくては……ええと……『歓喜の白路』はどうかしら? 詩的でとてもいい名前じゃない。」
と、言う。


そもそも、マシュウ・カスバートはもう老人であり、身体がだいぶ動かなくなったので、

新しい労働力としての男の子が欲しくて孤児院に依頼したのである。

なのに、手違いで痩せっぽちで赤毛の女の子が来てしまった。

マシュウにとっては、女の子なんてぜんぜん意味がない、要らない、むしろ迷惑、すぐに孤児院に文句を言って、取替えてもらわねば・・・

と、普通ならそんな展開も不思議はない筈なのに、マシュウはそうしなかった。

それどころか、理論家で少し気難しい妹のマリラを説得して、アンの為に何が出来るのかを、考えてやろうとした。

こうして、マシュウには(マリラにとっても)、アンと名乗る(昨日まで)見知らぬ少女が、他の何よりも重要な意味を持つ存在へと変わってしまうのである。

その選択のせいで、自分の身体がどんなに辛くても、不平をこぼさず、信念を通して、マシュウは己に鞭を打つように働き通した。

やがて立派に成長したアンにマシュウは満足したように言う。

「わしは1ダースの男の子よりもアンの方がいいよ。いいかい、1ダースの男の子よりもだよ」

これ以上の賛辞があろうか?

そして、その翌日、マシュウは亡くなってしまうのである。


人の一生は、儚い。

でも、マシュウの選択は愚かだと笑う人がいるだろうか?

マシュウが生きた意味はないと、誰に言えるだろうか?

アンのように、マシュウのように、生きる意味の、答えを見つけたい。

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