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属性で考える前に「個人」で考えるべき(2024/05/03)


 ここ数日、自分の中でモヤモヤした出来事が何点かあったのですが、そのうちのひとつから考えたことについて触れてみたいと思います。

 先日の記事で書いたのですが、電動車椅子ユーザーの女性がバスの運転手に対して細かい要求をしていたことがありました。(↓当該記事)

 そして、また後日に同じ車椅子女性に遭遇したのですが、やはり同じ要求をしていました。そのとき、その女性は「この停め方じゃ無理なんだよね。切り返して寄せて。」というような言い方をしていました。

 どうやら私は、この女性に対して少なからず嫌悪感を抱いてしまっているのだと自覚しました。そのとき、冷静に自分の感情を分析することに努めました。

 1~2ヶ月ほど前ですが、「X(旧Twitter)」で話題になっていた車椅子ユーザーの方の書き込みをご存知でしょうか?映画館に行った際に、車いす用のスペースではない座席を希望し、その席はバリアフリー対応ではなかったため、館内の従業員に依頼し、その席まで自分を移動させるよう要求した旨の話でした。

 この件とリンクしてしまい、「一部の車椅子ユーザーの要求がワガママに感じる」といった具合に、私の中で集約されてしまっていたように感じました。

 しかし、当たり前なのですが、尊敬すべき車椅子ユーザーの方だって世の中にたくさんいらっしゃるはずです。ここで冷静に考えたのですが、バスの乗り方に指示をしてきた先ほどの女性の件。例えば健常者が乗客として運転手に何かを依頼する場合に、同じようにあのような言い方だったら、やっぱりモヤっとしたと思うのです。つまりは、「車椅子ユーザー」という属性で括るのではなく、「その女性」という個人として見るべきだったと思ったのです。

 また、話は遡りますが、以前に旅行先で偶然見かけた視覚障害者の方をでお手伝いした際、その方は目的のお店を探しているとのことでした。「目的の店」の名前や住所などが分かれば、「見えないこと」に対するお手伝いは出来たと思うのですが、その方は、そもそもそのお店の名前や住所などをきちんと把握しておらず、事前に調べてきた様子でもありませんでした。

 結局、情報が少なすぎてご案内が難しかったため、近くにあったホテルのフロントの方に後の対応をお願いしてしまったのですが、このときに「視覚のハンデがあるなら、なおのこと、事前に自分で調べてから来ればいいのに」と思ってしまいました。(↓当該記事)

  このときのことも、当時は「視覚にハンデがあるのに」という見方をしてしまったのですが、そもそも視覚にハンデがある人でももちろん事前に調べてくる人もいるでしょうし、健常者でも事前に調べない人もいれば調べる人もいると思います。

 つまり、「視覚障害者だから~」という属性ではなく、その人「個人」が、そういう人だった、と考えるべき話だと思いました。


 そう考えると、この数日のモヤモヤは何割か晴れたのですが、いまだ咀嚼中の案件もありますので、それについては、後日また言語化できればと思います。

 本日もお付き合いくださり、ありがとうございました!!

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