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「戸井凱音」という男①

みなさん、はじめまして。

ハンドボール選手の戸井 凱音です。
\ 逆から読んでも「といかいと」だよ /

北海道釧路市出身、186cm95kg。
カナダ🇨🇦と日本🇯🇵のハーフです。

愛知県の豊田合成ブルーファルコンで
ハンドボールをしています。
背番号は3番です。

ずっとnoteはじめたいなと思ってて
ようやく「よっしゃ書くか!」と
元気が出てきましたので、書いてみます。

今回書くのが初めてなので、
まずは「どのようにして僕が生まれたのか」
を書いてみます。

面白いかも。
なかなか不思議な人生です。


・長野オリンピックの年

1998年、12月19日
長野オリンピックが開催された年の終わり頃
北海道の右側にある、漁師のまち釧路市
カナダ人の父🇨🇦と日本人の母🇯🇵という
すこし、特殊な2人のもとに生まれました。

余談ですが、
釧路〜札幌間は車で約6時間かかります。
これは
東京〜大阪間とほぼ同じ所要時間です。

さすがにビックリでしょ

釧路市の位置

・日本製紙クレインズ

釧路には「日本製紙クレインズ」という
アイスホッケーの日本トップチームが
数年前までありました。

父は1990年代の終わり頃、
そこで監督をしていました。

すご〜。

そんなクレインズは日本製紙の経営難により
2019年3月末に廃部してしまいました。

たしかに紙の需要減ってきてるもんね。

・父が来日した理由

時は遡り、1995年頃

来る長野五輪に向けて、
アイスホッケー日本代表に
外国人帰化選手を増やすため

リーグや協会が日系外国人選手の
招聘に力を入れていたそうです。

(昔の記事めっちゃ読んだ。笑)

クレインズにも外国人選手が増えて
いたみたいで、
そこでチーム初の外国人監督として
招聘されたのが僕の父だったみたいです。

ほえ〜。

そんな父と初めて会ったのは、

母さんに連れて行ってもらった
アメリカ、オハイオ州のデイトン。
当時、小学校2年生でした。7歳?

最近、
大人になってきた戸井くんが
抱きはじめた思いは、

「自分から息子に会いに日本来いよ!
 せめて、一回くらい。ばかやろう
🖐🏻

メッセージはたまにくれるんですけどね。
会いにくる努力が欲しいよね。笑

パパをライトセーバーでボコボコにした際に
撮影されたと思われる写真

・パワフルな母親

僕は高校卒業まで
母さんとじいちゃんばあちゃん、
そしてわんこ達と暮らしてきました。
(簡単にまとめると)

母は生まれも育ちも釧路。
運動神経バツグンだった母はソフトボールを
ずっとしていたのですが、
ソフトボールの推薦で行った高校で
ハンド部の先生に猛烈な引き抜きに遭い
ハンドボールのキャリアをスタートしました。
(どういうこと?笑)

そこからは働きながらクラブチームでハンドボールをしてて、国体にも北海道代表で何度も行ってたみたいです。

ちなみに僕が高校の時もバリバリ動けてました
(45歳くらいだったかな)

若い頃は、
単身でヨーロッパを巡ったりしてて
エネルギーの塊みたいな人です。
英語ペラペラ。(僕は喋れません。悲しすぎ。)

僕は小学校中学校サッカーをしていたのですが、それに触発されて(?)未経験なのに
女子サッカーチームに入って
得点王とったりしてました。

すんごいな〜、今思うと。
本当に偉大な母です。

パーツが似てる

・両親の出会い

釧路は「氷の都」と呼ばれるほど
アイスホッケーが盛んで、
全国で強豪と呼ばれる高校が何校もあります。
そしてクレインズは、氷の都のシンボルとして
釧路市民から愛されていました。

そんな釧路で生まれ育った母は
若い頃クレインズの試合をよく見に行っていたらしいです。そしてなぜか監督の出待ちをしてたらしい。

そしてなんやかんや?があり
戸井凱音、爆誕という流れでございます。

爆誕しました



どう。
まだ生まれただけなのに、
1,500文字も使ってしまいました。

今回はここまでにします。
次回は僕の生い立ちを書いてみる予定です。

全然違うこと書くかも。笑

また読みにきてね〜!!!

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