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夜明けのすべてに幸福がありますように

この先は泣いてしまう。
そう思って本を閉じる。昼と夜の狭間を縫うように走る電車が最寄駅に到着したのはそれから10分ほど後だった。

最寄駅でいつもと反対側の出口へと向かう。買い物をして帰るためだ。改札を出て普段は右に曲がるところを左に曲がって、駅ビルと言っていいのか微妙なレベルの商業施設を抜ける。

エスカレーターを降りてすぐにある昔ながらの花屋がなんとなく目に入る。店先に並んだ霞草の花束には「特価!385円」の値札が貼られていた。横目に見ながら通り過ぎて、思い直して手に取った。
奥で新聞を読んでいた店主のおじさんは、およそ接客をしているとは思えない声量と言葉数の少なさで代金を要求しながら花束を紙で包んでくれた。
買ってから買い物をするには邪魔だったなと思い至る。一度帰宅するかこのまま断行するか逡巡したのち、手に持ったまま目当ての店に向かった。

花なんて普段は買わない。
飾るようなスペースはないし、綺麗な家でもない。それでも不必要や不都合よりも花を買いたいという気持ちが勝った。
『夜明けのすべて』はわたしにとって、そんな気持ちにさせる本だった。なぜだかはわからないけど。


藤沢さんはPMSに、山添くんはパニック障害に悩む同年代だ。
こういう時、然るべきタイミングでこの本に巡り会えたな、と思う。そういう風にできてるんだな、とも思う。
たとえばわたしが今50代だったり、反対に中学生だったりしたら、感じることは随分違うはずだ。まぁそれはそれで違った味わいがあったのかもしれない、とも言えるか。


わたしは運良くPMSという診断がつくほどではないし、パニック障害では今のところ全くない。
ただ月の日の数日前はイライラしやすかったり、人生に絶望したりする。時々イライラが抑えられなくて些細なことで爆発して、爆発しながら既に徒労感に苛まれている。
とはいえ他人に当たらない程度には制御できるし毎月でもない。
だから藤沢さんの辛さの全てをわかったとは言えないけど、少しは身をもって体験しているから、共感してしまう。

一方PMSじゃない時の藤沢さんは他人の目を気にしがちなくせに突拍子もなかったりして、ちょっと面白い。わたしは「準備万端で他人の家に押しかけて髪を切る」なんて思いつきもしないし、いくら感動したからって「他人の前で下手くそな歌を披露しながら映画の内容や感想を伝える」なんてことはできない。共感はできない。


山添くんに関しても、何をしても楽しいと思えない、する気が起きないという気持ちはちょっとわかる。一緒にしたら、全然違いますよね?と辛さを比較されそうだけど。

ただパニック障害と付き合いながら生活している知り合いはいる。最近は緩やかに快方へ向かっているようだけど、ピーク時のその人は本当に辛そうだった。その人の周りも大変そうだったから、山添くんの元から千尋さんが離れていくのも無理はないなと思った。実際、その人のその時のパートナーも離れていってしまった。わたしは遣る瀬無いなと思いながらも、仕方がないなとも思っていた。

だから山添くんの辛さをわかるとは言えないけれど、少しだけ実感を伴った想像はできる。
そう言うと知ったように語るなと内心で毒づかれるかもしれない。


そうやって藤沢さんと山添くんに勝手に親近感を覚えて、勝手に違いを見つけて、勝手に線を感じて、そうやって読み進めていく。だから泣くし、笑ってしまう。特に2人のやり取りはお互いに遠慮がなくて、笑っているのをマスクでは隠しきれていない気がする。

ヒヤヒヤするシーンも何個かある。
たとえば藤沢さんと山添くんがお互いの抱えているものを明かす時。と言っても山添くんのパニック障害は藤沢さんが気づいただけだけど。
お互いに無理せずに頑張ろうと声をかける藤沢さんに対し、山添くんはPMSとパニック障害を比較して暗に自分の方が苦しいと返す。

わたしは第三者として二人のやりとりを見ているから嫌な返しだなと思えるけど、普段同じようなことをしている可能性はある。
ひとは自分の苦しさには敏感で、他人の苦しさには触れられない。想像することはできるけど、それはあくまでも自分の価値観に基づいた想像でしかなくて、過度だったり不足だったり見当違いだったりする。
悪意があるわけではないし、違う人間である以上仕方のないことだけど、そうやって気づかずに他人の感情を雑に扱っていたり、扱われていたりする。お互い様ともいう。

苦しさを比較した山添くんに対して、藤沢さんは病気にもランクがあるんだね、とおどけて返してみせる。山添くんは自分の言葉を省みる。おどけて返してくれた藤沢さんにも、ちゃんと振り返って反省する山添くんにも、勝手に救われた。


もう一つ挙げるとするなら、藤沢さんなりに気を利かせて社長に山添くんがパニック障害を抱えていることを伝えに行った時。
報告を受けた社長が社員に周知する、なんてことになったらどうしようと落ち着かなかった。

藤沢さんは打ち明けて楽になったひとだけど、山添くんがそうだとは限らない。
むしろ山添くんは過去の溌剌とした自分と今の自分のギャップを未だ受け入れられずに否定していて、「知られたくない」が強い印象だ。そこには惨めというかそんなはずはない、何かの間違いだ、という気持ちもあるだろうし、そのことを知った人の的外れな反応に、もどかしく思いたくないという気持ちもあるんだろう。
そもそもいくら善意とはいえ本人の預かり知らないところで他人に伝えるべきではない。
わたしの不安通りに周知することになっても、藤沢さんの善意が理由も聞かれずに否定されるのも、どちらも嫌だなぁと思いながら物語を追っていた。

ところが社長は山添くんの抱えているものに気づいていたし、勝手に伝えにきた藤沢さんを咎めることなくそう行動した理由を聞いてくれた。
そして公表して楽になる人と誰にも気づかれずにいる方が楽な人がいるよね、とどちらも否定せずに伝えてから自分の知られたくない秘密(水虫)をおもしろおかしく話して逸らす。平西さんの薄毛や鈴木さんの腰痛、住川さんの肩凝りにまで言及して、心身ともに迷いなく健康な人っていないよね、で結ぶ。

ああ良かった、と安堵する。勝手に広まることもなかったし、藤沢さんの想いも否定されなかった。社長は穏やかで優しいだけではなくて、ちゃんと見ているひとだ。やんわりと必要な部分は窘めるけど、冗談を交えることで圧はない。こんな風になれたら素敵だなと思う。

誰かの負担を和らげるのは、強引に髪を切ったり、勝手に告白したりすることなんかじゃない。靴に炭をしのばせる。そういうことが、苦しさを軽減させてくれるのかもしれない。

瀬尾まいこ『夜明けのすべて』 p94

章の最後のこの部分がとてもすきだ。
社長は秘密(水虫)を誰にも明かしていないのに、奥さんは気づいていてスリッパを干したり、靴に炭を入れたりすると続ける。そのことに対して、気にしてくれている人がいるだけで気が楽さ、と添えるのだ。

自分がそう思うからこそ、社長は色んなところに目を配っているのだろう。じゃなかったらいくら少人数とは言え、一社員のいつも利用しているコンビニを把握してたり、家のポストに無記名でお守りを入れたりしない。


中盤あたりからお守りが登場する。
無記名のままポストに投函されたお守りたちが、自分の先行きがいいものであるようにひそかに願っている人が存在することを告げる。
その事実に山添くんは最初こそ何も返せないと落ち込みそうになっていた。
だけど徐々に周りに目を向けられるようになってきて、お守りの贈り主の見当もつけて、完全な孤独などこの世にはないはずだ、と再び世界に馴染み始める。


すきだったことを思い出して、自分を取り戻したり変わったりする。
今はまだできないことでも、代替案があったり、それが思いの外楽しかったりすることを知る。
失敗に気づいた途端動けなくなって、だけどそこから自分で打開策を見つけられる。
そうやって少しずつまた歩き始める。
衝撃的な事件なんて起きないけれど、ほんの些細な出来事をきっかけに、自分も周囲も変わっていく。コンビニがいつもと違うくらいのことで、話は膨らむのだ。
夜明けはきっともうすぐそこだ。


そういえば花を買いたくなった理由がわかった気がする。わたしも些細な変化が欲しかったのだ。
わたしの周りには藤沢さんはいないから、いつもとは違うコンビニでご飯を買ってきてくれたり、お守りを無記名でポストに入れたり、ボヘミアンラプソディの感想を下手くそな歌を交えながら伝えてくれるひとはいない。だから自分で少し違う風を吹かせてみたかったのだ。それが、あの日のわたしにとっては花を買うことだったのだろう。

それから。
誰もが抱えているそれぞれの秘密を隠してくれそうな花だったから。
静かでささやかで控えめだけど、寄り添ってくれるような花だったから。
心の澱が流れたような清々しい気分にぴったりの花だったから。
だから数多ある花の中でも、霞草を買って帰りたくなったんだと思う。


瀬尾まいこ先生の直筆のコメントが読めます。
未だ読んでいない、夜を抱えて夜明けを待っているひとは是非。





蛇足だけど、映画版『夜明けのすべて』も観た。
その話はまたいつか、機会があれば。

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