committed to excellence 阿波古代史など

阿波(麻植郡)の古代史。藤原宮≠新益京(=藤原京)という仮説。 参考:「四国考古学最前…

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阿波(麻植郡)の古代史。藤原宮≠新益京(=藤原京)という仮説。 参考:「四国考古学最前線」「道は阿波より始まる」「狐の帰る國」「藤原宮 ー半世紀にわたる調査と研究ー」@FB元伊勢古事記研究会 写真は、八貫渡銅鐸。飛鳥~奈良時代の徳島県吉野川市鴨島町敷地西ノ宮出土_蕨手刀。

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弥生円形墓から萩原墳墓群・讃岐型前方後円墳への変遷 ~卑弥呼共立前後の時代~(更新:2024.5.29)

Ⅰ.弥生終末期には、吉備・播磨・讃岐・阿波の交流が深かったことがわかる考古学資料 弥生円形墓の拡散「古墳出現期の播磨」 岸本道昭 岸本道昭氏の『図:弥生円形墓の拡散』(2002「古墳出現期の土師器と実年代」資料「古墳出現期の播磨」)からは、 備讃播から阿波北東部→畿内への広がりが感じられる。 讃岐を核として、弥生円形墓から讃岐型前方後円墳に変えていった職人集団(讃岐忌部?)がいたのでしょうか。 前方後円墳発祥の地は播磨である? 岸本道昭(kawakatu氏ブログより)

    • 658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか?

      壬申の乱のとき、 「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也」  ずっと気になっていることがある。 658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、後の天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか? 根拠となるものは見当たらないが。 天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。 諱は大海人(おおあま)。和風諡号は天

      • 古代阿波だけにあった貴重な遺物(弥生~白鳳時代)

        最近のゲノム解析の研究結果より、四国阿波は、渡来人が早くから来て共生していた地域であると考えられる。太平洋や瀬戸内海航路をまたいで、海洋国家ヤマト国の中核となってきたのであろう。 論語木簡(徳島県観音寺遺跡出土) 論語木簡とは、四角柱の四面に文字あり、論語の文章の残る最古級の木簡。行政文書作成機関の存在を示唆し、大陸文化がこの地にいち早く直接渡って来たと考えられる。 7世紀の第2四半期にさかのぼる可能性がある。 阿波の国府から出土したが、ここが当時の日本国の首都だったのかも

        • ジオ・ヒストリア風、飛鳥万葉集の舞台(阿波「狐の帰る國」より)

          「狐の帰る國」坂東一男著、は徳島県旧勝浦郡多家良村(徳島市八多町)に生まれた実家に伝わる伝承をもとに、万葉集の舞台を説明した本です。 坂東氏は、「道は阿波より始まる」著者の岩利大閑氏とともに、阿波古代史を解き明かしてきました。 (「狐の帰る國」は発行元の京屋より直接購入できました。) 万葉集の時代の地形・情景を想像しながら google earth で阿波の空中散歩を楽しんでみましょう。 万葉集で歌われた海・川・山の情景がイメージできるでしょう。 ※青マークは万葉時代の比

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        弥生円形墓から萩原墳墓群・讃岐型前方後円墳への変遷 ~卑弥呼共立前後の時代~(更新:2024.5.29)

          藤原京出土木簡「己亥年十月上挟国阿波評松里」の謎(これは四国徳島からの木簡か?)

          有名な木簡の解釈について 『古語拾遺』などによると、四国の阿波忌部氏が黒潮にのって千葉に移住・開拓したことに由来して、房総半島に上総=安房の国ができました。 ここに、藤原京出土木簡のなかでも最も有名な木簡があります。 「己亥年十月上挟国阿波評松里」 定説の解釈では、己亥年は西暦六九九年(文武三年)、 「上挾国」は現在の千葉県南部「上総(安房)」とみなす。 「阿波評」はのちの安房国安房郡、安房国は七一八年(養老二)に上総国から分置される。 「評」は郡の前身で、七〇一年以後は

          藤原京出土木簡「己亥年十月上挟国阿波評松里」の謎(これは四国徳島からの木簡か?)

          ジオ・ヒストリア風、道具学 ~阿波・讃岐編~

          最近、youtubeの「週末縄文人」を知り見てみました。 そこで縄文時代当時に使える道具だけで、生活を少しづつ豊かにしていく様を再現している様子を見ると、感動さえ覚えますね。 ここでは古代、地理的背景をベースに、先進道具の発達した讃岐・阿波(伊予の二名島)について紹介します。 弥生時代の先進道具が、讃岐・阿波から近畿へ広がった痕跡を紹介していきます。  ~縄文から弥生にかけて、先進実用工具の発達した讃岐・阿波~ 縄文時代以前には、黒曜石による刃物が多用されていたと考えられ

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          正倉院に残る蕨手刀と、阿波鴨島出土の蕨手刀は同時代のⅢ型鋒両刃造りである。

          阿波説を裏付けるか 西日本で出土される蕨手刀は数少ない。 正倉院伝世刀の蕨手刀と近い造りのものが阿波鴨島(西宮古墳近く)から出土している。 鴨島出土品には鉄板の墓誌板が添えられていた。 阿波鴨島に持統天皇の藤原宮があったという説を裏付ける一つの根拠になると思いませんか。 鴨島町誌 より 徳島県の歴史 (県史シリーズ ; 36) より 福井好行 著 山川出版社, 1973 徳島の遺跡散歩 より 西宮古墳、敷島神社の紹介動画(GPW) 装飾大刀の変遷蕨手刀は7世

          正倉院に残る蕨手刀と、阿波鴨島出土の蕨手刀は同時代のⅢ型鋒両刃造りである。

          卑弥呼の時代の埋もれた阿波考古学成果

          邪馬台国阿波説の考古学的根拠となる文献・調査報告書を紹介します。 ここでは、「邪馬台国」と通称されるものは、東瀬戸内連合国家としての倭(やまと)政権と考え、のちに奈良へ遷都した大倭ヤマト政権の母体となるものとの考えに基づいています。 考古学の師匠から伝授されたもののうちから主なものをピックアップしました。詳細は、facebookの元伊勢古事記研究会をご覧ください。 また、阿波弥生終末期考古学者のキーマンは、徳島県の古墳発掘を長年手がけてきた菅原康夫氏でしょう。彼の調査報告

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          前方後円墳成立期における墳丘石積みの系譜 ー萩原1号墓・西条52号墓の再評価ー 吉木誉絵 の紹介

          明治大学考古学研究室論文の紹介 実のところ、私の記事は、尊敬する考古学の師匠の仮説に沿ったものが多いのです。 以前の記事に、石室の構造などから卑弥呼の墓は萩原1号墓であるという仮説を書きました。 その師匠から紹介のあった明治大学考古学研究室論文を紹介します。 葺石構造=墳裾部の石積み構造の系譜を調べると、 萩原1号墓の葺石構造と纏向型前方後円墳である最古のホケノ山古墳が類似していること。 萩原1号墓の阿波、西条52号墓の播磨の古墳築造技術が奈良纏向に伝わったのではないか

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          ホツマツタエと阿波の関連

          あるホツマツタエの研究者に質問してみました。 問い)ホツマツタエは阿波発祥ではないですか? アワミヤは阿波のことではないですか? 答え)たしかに、ホツマツタエは初期にしばらく四国にあったようです。 ホツマツタエ前半にあたる天(あ)の巻、地(わ)の巻が完成した後、 四国のトツ宮(アワ宮)にて保管されていたといいます。 トツ宮(アワ宮)は通説では、香川の金刀比羅宮のことと言われているようです。 アワは四国(イヨアワフタナ)そのもののことを言ったようです。 ホツマツタエ発

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          ここが出雲? 式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社「宅宮神社」には、いずも踊り、神代文字の版木がある

          宅宮神社(えのみやじんじゃ)神代7代の大苫邊尊が祭神 神代文字の版木が残っている いづも踊り(神踊り)が古くから続く もう、このあたりの海岸線一帯は古代の「いずも」、出雲神話の舞台に間違いないでしょう。 古代は、眉山の麓まで海岸線が迫っており、海人族、海部族、出雲族とよばれるような漁業・操船に長けた民が住んでいたそうです。 戦前くらいまでは、「いづも」と呼ばれていた伝承が残っていたそうです。 日本の他の地方で、これほど古い伝承が残っているところがあるでしょうか? い

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          邪馬台国畿内説・九州説に決め手なし。阿波説は?

          長年の論争が続く、邪馬台国畿内説・九州説に決め手がないことはみなさんご存じだと思います。 奈良時代の前、白鳳時代までは、阿波に皇都があったと考えています。 各説の弱点 畿内説の弱点:3世紀以前の古い古墳・遺跡が少ない。生活都市の形跡が少ない。纏向遺跡は4世紀以降と考えられる。(畿内説では無理に3世紀と主張している。) 九州説の弱点:魏志倭人伝の行程に合わせようと無理がある。 では、阿波説はどうかというと、 主な根拠は、youtubeのANYAチャンネルで説明されているの

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          阿波古代史を知るための公開古文書リスト、「阿波國風土記」他(更新2024.5.13)

          阿波邪馬台国説を提唱する、先人の調べた資料・痕跡をたどるために、 とくに、ネット上で無償公開されて読めるものを中心にピックアップした資料を列挙して紹介しておきます。 ※なにゆえ古代史であり、それぞれの内容の真偽は不明です。 私は、先人の説におおむね賛同しており、阿波から始まった政権が奈良平城京に遷都したと考えています。 ただし、近年までの考古学的成果を踏まえて、少し修正すべき点もあると思います。 道は阿波より始まる(岩利大閑著)道は阿波より始まる(その1,その2、その3

          阿波古代史を知るための公開古文書リスト、「阿波國風土記」他(更新2024.5.13)

          奈良の藤原京跡とする根拠が謎?(阿波邪馬台国説)

          藤原京は土地選定の段階で失敗していた?わたしたちは歴史の授業で、飛鳥時代→(白鳳時代→)奈良時代と、主に奈良で都がつくられていたと習いました。一時期は難波宮などにあったことを除いて、ほとんどが奈良盆地にあったということでした。 飛鳥時代は、天皇の交代ごとに宮を造り替えており、狭い範囲で転々と宮殿を移していきました。 その後、藤原京に遷都し、わずか16年で平城京に遷都しています。 藤原京は平城京とほぼ同じで少し広い面積であり、建物は移築したものもあるそうです。 藤原京が短

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          卑弥呼の墓は何処か? 共立された阿波に

          下記において、考古学師匠の仮説を理解しようとしています。 𤰞彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人 『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳倭國条より、 「冢」とは、単に土を盛った程度の墓であって、 高い盛り土のある古墳とは違います。 「徑百餘歩」とは、短里(300歩=1里=76.8m)で考えます。 足底長25.6cmX100歩=25.6m 「徇葬者奴婢百餘人」 とは、男女100余名が取り囲んで葬儀を営んだことと解釈します。 (徇葬と殉葬は区別したい。) 纏向遺跡、ホケノ

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          人麻呂は阿波の人だった

          飛鳥時代、白鳳時代までの皇都は、阿波の東海岸から吉野川流域にあったと考えています。 とすると、柿本人麻呂は阿波で生涯を過ごしたことでしょう。 その痕跡となるものを集めてみたいと思います。 万葉集作者部類宮内庁が図書寮文庫でネット公開して読める本から、  万葉集作者部類(1巻) 文化二(1805) 阿波国文庫&不忍文庫  15 of 42 page の中に、下記のように書かれてました。 「人麻呂は飛鳥のち岡本宮のひに生まれて藤原京和銅の始奈良へ遷都より前にみまかれし也この人す