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序001.4ハイのジョーキセンと横浜の開港

≪1.横浜の開港と生糸貿易のはじまり001≫
 横浜の洋館・建造物遺産などをご紹介するにあたって、横浜の街の歴史的な流れや背景などを少しご紹介しておきましょう。
いま、横浜のイメージをみなさんに伺ってみると、横浜港、ベイブリッジ、ランドマークタワー、帆掛け船のホテル・パシフィコ、大さん橋、赤レンガ倉庫、山下公園、みなとみらい、中華街、カップヌードル・ミュージアム、日本丸、氷川丸、アンパンマン劇場・・・などがあげられるのではないでしょうか。
さまざまな施設があり、毎日どこかで何かのイベントが行われていて、たくさんの人が訪れている人気の観光地、というのが平均的なところではないでしょうか。さながらテーマパークのような印象を持たれていて、日本の近代化は横浜から始まったといっても、残念ながら、ピンとこない人の方が多いかもしれません。
マシュー・ペリーが当時最新の米艦隊を率いてアメリカ大統領の親書を携え、日本との国交を求めてやってきたのは1853年7月でした。蒸気船サスケハナ、ミシシッピの2隻と帆船サラトガ、プリマウスの2隻の計4隻で江戸湾深くにまで侵入してきました。
「スワッ、侵略か?」と心配する危惧をよそに民衆は「太平の眠りを覚ますジョーキセン、たった4杯で夜も眠れず」と幕府のあわてぶりをはやしたてました。ペリー艦隊の蒸気船4ハイ(隻)に、銘茶として知られていた宇治の上喜撰(ジョーキセン)をひっかけて、4杯も飲んでは眠れないだろうと、よんだ秀逸な川柳です。
幕府は、その時は開国をうながす親書を受け取っただけの塩対応で、上陸を許可することはありませんでした。ペリーは交渉を渋って長引かせようとする幕府の対応を見て、親書を手渡し、返事を受け取るために1年後の再来日を約束して、いったん琉球・マカオに引き上げました。
そして1年後という約束にも関わらず、翌1854年2月、に再びやってきます。そして、初めて日本に上陸が許され、幕府との間で和親条約の交渉が行われることになりました。交渉の場として設定されたのが、横浜開港資料館のある場所です。ペリーに同行してきたハイネの描いた条約交渉の絵にタマクスの樹が描かれていますが、このタマクスのひこ孫が、いまでも開港資料館の中庭に茂っています。
日米和親条約が結ばれたのを受けて、フランス、イギリス、オランダ、ロシアなどの国々とも和親条約を結ぶことになり、それらの国の人たちが日本にやってくることになりました。その段階では国交が開かれただけでしたが、通商を求めるこうした国々の強い要望により、1858年、アメリカをはじめとして通商条約が締結されることになり、1859年に通商を行うための港として神奈川に港を開くことが決められました。

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