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026 31歳伊藤博文の英語スピーチ

明治4(1871)年、岩倉使節団は最初の訪問国アメリカで大歓迎を受けます。サンフランシスコに到着した翌日の12月14日にグランドホテルで歓迎の晩さん会が開催されるのですが、その席で伊藤博文は通訳なしの英語でスピーチを行います。

1841年に長州で足軽の子として生まれた伊藤博文は秀才として名高く、青年となって吉田松陰の松下村塾で学びます。1863年に長州藩から派遣されてイギリスに留学しましたが、翌年、長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国を相手に下関戦争を仕掛けたことを聞いて、それを止めるために留学を1年で切り上げて帰国。また、71年には半年ほどアメリカ・ワシントンに法律を学ぶために滞在しています。

当時のアメリカは、1776年の独立から100年、進取の気象に燃えた若い国でした。広い国土の割に人口が少なく、ヨーロッパから多くの移民を受け入れていました。移民とともにヨーロッパの産業技術や知識を輸入することもねらいでした。

こうしてイギリス、フランスなどから移り住んだ若い技術者たちは、自由の地で本家をしのぐ発明・改良を進めて産業を急成長させます。ヨーロッパの諸国から見れば、アメリカは開発途上国。技術も作られる商品も、粗削りで、品質的にはいまひとつの感はあったようですが、それでも、それまで見られなかった新しい工夫がそこここに加えられていて、価格もリーズナブル、ヨーロッパ諸国でそれなりの市場を獲得し始めていたところでした。

アメリカとしては、ヨーロッパに次ぐ新しい販売先としてアジアの開拓を目指している時期で、当時盛んだった捕鯨船団への補給基地として、また中国などアジア諸国への燃料や食料、水を補給するための中継基地として、日本は重要な位置にあると考えていたところでした。

アメリカの市民から見れば、日本は、ペリー艦隊を派遣して開国させ、世界で初めて和親条約を結んだベールに包まれた国として、世情的にも多くの国民が関心を持っていました。町中がウェルカムという雰囲気の中での視察団の訪米であり、伊藤博文のスピーチだったわけです。

その頃のアメリカは、スピーチが大流行していたそうです。人々はスピーチを楽しむためにパーティや晩さん会、演説会を開き、そこでお互いの弁舌を競ったそうです。そのため、スピーチを収録した講演録集なども販売されていました。

そんな背景の中で行われた伊藤博文のスピーチは、流れるような英語というわけにはいかなかったようですが、それでも終わった後、しばらく拍手が鳴りやまなかったといいます。

外国人を前に、国の将来を思う気持ちと、若さからくる気負いに溢れた、非常に気高いスピーチで、いま私たちが読んでも、強く訴えてくるものがあります。

おどろくことに、伊藤博文は当時31歳。わたしたちの31歳はどうだったかと思えば、内心忸怩たるものを禁じえません。

スピーチはちょっと長いのですが、非常に興味深い内容ですので、全文をご紹介しましょう。

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