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序006.養蚕は神代の時代からの伝統産業

≪1.横浜の開港と生糸貿易のはじまり006≫こう紹介してくると生糸の歴史は明治時代になって初めて生糸が産業として大きく成長したように思われるかもしれませんが、羊毛もなく、繊維向きの毛の長い綿花ができない日本では、繊維、つまり衣服の原料となる素材は生糸=絹や麻くらいしかなく、養蚕製糸業は、有史以来、常に米に次いで大きな生産額を誇ってきた日本の伝統産業でした。
 生糸を生み出すカイコを育て、繭を取って糸にする技術は、稲作とともに伝わり、神代の時代から伝承され、続いてきた日本の伝統的な営みでした。
 古事記/日本書紀は両方を合わせて記紀と呼ばれて、神々の誕生と日本の国の創成にまつわる歴史を記述したもので、それぞれ712年、720年にまとめられたものです。
どちらにも、「天照大御神が、忌服屋という御殿で神に献上する衣を織らせている・・・」という記述があります。当時、衣服の素材としては、まだ木綿はないので、麻か生糸です。神に献上する衣服ということになれば、素材は生糸でしょう。こうして養蚕は神々も行った仕事として代々ひき継がれ、今でも皇室では上皇后が養蚕を行っています。
 明治以降は、産業として各地で養蚕の研究がすすめられ、さまざまな技法が開発されて日本の養蚕技術は高く評価されるようになるのですが、その一端が見られるのが、世界文化遺産に選定された「富岡製糸場と絹産業遺産群」です。
 こうした伝統の中で、開港と同時に生糸が売れるようになり、その流れは戦後まで続きました。当初は、生糸を輸出しても、絹織物は輸入するという状況が続きました。紡績以降の技術は圧倒的に先進国にかなわなかったのです。列強を強くした産業革命の原点が蒸気機関の発明による紡績の機械化だったのです。生糸から繊維にする製糸工程、紡織工程の機械化が遅れていたのです。1972年、富岡製糸場ができてやっと製糸工程の機械化が始まったところでした。
 図006-1は、明治33(1900)年の日本における繊維紡績産業の生産額を素材別に見たものです。

図006-1繊維紡績産業の素材別生産額(明治33年)

輸出入がオープンになって綿花が輸入され、安価な素材として綿産業が大きく伸びてきましたが、まだ、繊維産業の半分以上を生糸・絹が占めていました。

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