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序002.開港すると生糸貿易が沸騰

≪1.横浜の開港と生糸貿易のはじまり002≫
 
通商条約を締結したアメリカをはじめとする5か国は江戸への利便性を考えて、神奈川の港を整備して開くことを要求してきましたが、当時の国内は、開国に反対し外国人を排除するという尊攘攘夷の嵐が吹き荒れているさなかでもあり、侵略を恐れた幕府は、江戸に直結した東海道・神奈川宿に外国人を受け入れることは危険が大きいと考え、神奈川の対岸で山手から突き出た小さな漁村であった地に港を開設することを決め横浜と名付けました。
 当時は、現在の横浜駅から桜木町の間は海の中で、桜木町と元町の間にわずかに砂州があるにすぎない状態でした。その砂州を整備し、開港場として港を作り、日本人用の商店街(桜木町-日本大通り)と、外国人用の居留地(山下町-元町-山手)を作りました。
横浜の名前はいまでは近代的な港のある観光地として知られますが、横浜の名前が歴史上登場するのはこの時からで、それ以前に横浜の名が歴史に登場することはありませんでした。
横浜港としてこの時に設置したふ頭が、いま象の鼻として再現されているものです。
港を開設し、居留地を整備しても、幹線の東海道からは遠く離れた新開地でした。そこで慌てて突貫工事で、東海道の浅間下から平沼-野毛を通って吉田橋までのアクセスの道を作り、吉田橋に関門をもうけました。外国人を襲おうとする武士をとどめる必要があったためです。関門から内側(海側)を関内と呼びました。現在の「関内」の地名はこの名残です。
こうして横浜の街に多くの外国人人たちが住み、商社が進出して輸出入の仕事が行われるようになり、それらの商人や外国商社のために洋館や建造物が作られました。
開港するにあたって幕府は、出入りの豪商などに開港場に店舗を出すよう促しましたが、それだけでなく、雄藩はパイロットショップを展開します。開港日にはさっそく複数の船がやってきて、取引が始まりました。安政元(1854)年の日米和親条約締結以来、日本に住んでいた外国人たちのなかには、一獲千金を夢見た商人も多く、喉から手が出るほど商売に飢えていたので、堰を切ったように取引が始まりました。
何が売れるのかわからぬまま店を開いた日本の店舗は、青天の霹靂、なんとお茶と生糸が飛ぶように売れます。
こうして明治政府は、日本の近代化を進める資金を、生糸の輸出で賄うことになります。この生糸頼みの資金獲得作戦は戦後まで続きます。歴史の転換点で、たまたま横浜が最初に貿易港として海外に開かれたために、生糸貿易は横浜を舞台に繰り広げられました。
生糸貿易がいかに国の発展を支えたか、 図002-1は、横浜港での明治元年~41年の輸出入額の変化です。


図002-1 明治期の横浜港が厚かった輸出入の金額の推移
(神戸・新潟などの港が開かれた後も横浜の扱い高は増えている。横浜市史資料編2)

赤が輸出を示しますが、乾いている土に水を撒くように、開港するや否や、生糸が飛ぶように売れ、取引はうなぎ上りに増えていきました。
この勢いは、新潟、神戸などの港が順次開港しても変わりません。横浜は常に日本の輸出入を最も多く扱う港でした。首都である江戸(東京)にも近く、最初に開港したことにより、日本全国から物資が集まるような仕組みが出来上がっていて、内外の商人に便利だったことも大きい。
 そして、その中心になったのが、図002-2に見るように生糸と蚕の卵蚕種でした。


図002-2 横浜港で輸出される荷物の内容 
(開港時はお茶と生糸が2大商品だが生糸が圧倒的に大きいことが分かる)

当初、開かれたのが横浜港だけで、江戸に近いこともあって多くの外国商人が横浜にやってきました。そして、横浜で生糸が手に入ることを知ると、ますます横浜に集中するようになります。
 東北、信越、上州の生糸産地から利根川-荒川を経て江戸に船で運ばれた生糸を、江戸で川船から海洋船に積み替えてそのまま横浜に運ぶことができました。水運を軸に横浜に集まりやすかったことも大きな利点でした。
 外国人商人にとっては「横浜に行けば生糸が安く買える」、国内の商人にとっては「横浜に行けば生糸が高く売れる」が合言葉となって、いちやく、横浜が世界から注目される生糸取引のメッカになったのです。

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