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054.山手資料館(旧中澤邸)

         山手本通りに面して建つ山手資料館。館内は西洋瓦や
         文明開化のころの貴重な品物が展示されている。

■独特の色遣いでおもちゃの家を思わせる
 山手本通りに建つ多くの洋館の中でもひときわ異彩を放つのが、この山手資料館。落ち着いた色遣いの建物が多い中で、独特の色遣いでとても目立つ。環境に溶け込んでいるが、遠くから見ると、おとぎ話に出てくるおもちゃの家のようだ。
 この建物、外観がユニークなだけでなく、山手の洋館の中でも貴重ないくつかの特徴を備えた洋館なのだ。
(1) 山手地域にある洋館が、ほとんど関東大震災後に建てられたものの中で、この資料館は、明治末に建てられたものであること、
 (2) 多くの建物が外国人の設計になる中で、日本人の大工の手にあるものらしいこと、
 (3) 外国人ではなく日本人用に建てられた洋館であり、
 (4) 手の込んださまざまな装飾が凝らされていること
・・・など、見どころ満載なのだ。

建物の側面に出っ張ってつけられたような玄関ポーチ
玄関ポーチの床はきれいなタイルで飾られている。

■何度かの移築ののち永住の地へ・・・
 もともとは、明治42年に本牧の中澤兼吉邸の応接間として建てられたもので、日本家屋に様式の応接間として作られたものをのちに洋館の部分だけ分離して保存・活用しているものだ。
中澤兼吉の父・中澤源蔵は、明治5(1872)に山手資料館の横を入った先、いま山手ハウスがあるあたりで中澤牧場を経営し、居留地に住む外国人に新鮮な牛乳やバターを提供していた
http://www.nakazawa-office.com/office.html)。
 源蔵の次男だった兼吉は、牧場のほかに食肉処理場や冷凍工場(横浜冷蔵の前身)、建設業などを行っていたが大正時代(1910年代)に入ってからは山手地区一帯の市街地化が進んだことで、牧場経営には不適切になり、搾乳業を終業した。
 兼吉の死後、洋館は昭和4年(1929)山手諏訪町の園田邸内に移築されたが、昭和47(1972)年にマンションが建てられることになり、解体された。その資材を横浜馬車道の勝烈庵の経営者である本田正道氏が引き取り、昭和52年(1977)に自身の運営する山手十番館の敷地内に移築し、横浜の歴史資料等を展示する山手資料館としいてよみがえらせた。

半切妻の屋根と3連のアーチ型に切り取られたひさし、アーチ型の窓、
赤いうろこのような壁、じっくり見ると、その装飾の多様さに驚く
明治初めにともされたガス灯(復元されたもの)などがおかれている。
玄関ポーチの横には、明治初年に米国から共立学園に送られた
「伝道のイス」と呼ばれた「グリーンベンチ」

 ■日本人がイメージした洋館
建物は小さく、ほぼ正方形。てっぺんを切り取った半切妻屋根はフランス瓦で葺かれ、屋根庇は3連のアーチ形に切られてハーフティンバーの飾りが付けられている。ひさしの下に除く窓も、ひさしに合わせて上部がアーチになっていて、柱や梁を強調したハーフティンバーの装飾とともに、ここだけを見ていても飽きない。この部分の外壁は、1階部分の下見板張りと違って、赤い小さな板をうろこのように貼りつけている。
1階の外壁はドイツ風の下見板張りで鶯色。白い枠取りを施した下上げ下げ窓と鎧戸上下の飾りの色も、梁に合わせている。
この建物は、日本人大工が設計・施工をしたとされているが、外国人が作った洋館と何か違うのは、日本人が持っている洋館へのイメージを具現化した洋館、ということがあるのかもしれない。目いっぱい日本人の思いを膨らませた洋館ということか。洋館になり切れていない洋館、和洋折衷と言ってもいい。その意味でも貴重な洋館である。
いま、内部は少し手が加えられているが、開港時以来の横浜山手にまつわる資料などが置かれていて、一見するだけでも価値がある。小さいので、30分ほどで見られる。以前は入館料200円が必要だったが、今は無料で見られる。

山手資料館
○市認定歴史的建造物
建築年代:明治42年(1909)
設計:不明
O中区山手町247 山手十番館庭内
Oみなとみらい線元町・中華街駅5出口から徒歩8分
OTEL 045-622-1188
011時~16時
○年末年始休館
○入館料:無料


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