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ヒノキがコンクリートを守る耐震設計      

                         薬師寺三重塔:西塔
最新の科学で構造計算された高層ビルの耐震設計では、地震が発生した場合、地震の揺れる力を弱めるように、ビルはくねくねとしなるようになっています。スパコンが開発されて複雑な力の伝達を計算できるようになった結果、こうした設計が可能になったのですが、実は、薬師寺の三重塔である東塔も、これと同じ揺れ方をするそうです。
 
ある時、西岡棟梁が薬師寺で仕事をしている時に、大きな地震が起こったそうです。心配になって東塔を見ると、なんと東塔は、三層の屋根が右に揺れると、二層は左に、一層は右に揺れるという具合で、揺れが各層で吸収されて、全体は大きく揺れていなかったのを発見して、こんなことを、すでに1300年前の工人は考えていたのだろうか、と西岡棟梁は驚いたそうです。
 
薬師寺を再建するにあたって、「秘宝の仏像の火災予防と耐震のために、秘宝を納める金堂の構造はコンクリートで固めるようにしなさい」と文科省から指示されたそうです。
言われた棟梁は、金堂は木造のそのままにして、仏像を保護するために、ヒノキで大きな部屋を造り、その中にコンクリートの部屋を作って仏像を安置しました。もろいコンクリートの部屋に振動が及ばないように木で囲むという逆転の発想の「耐震設計」としたそうです。
薬師寺には、東塔だけが残り、西塔は礎石だけしかありませんでした。
その西塔を再建した西岡棟梁は、完成した際に新聞記者が、「おめでとうございます」と言ってくれたときに、「ちっともめでとうないねん」と返答したそうです。
「これから大地震があったとか、台風があったとかいうときに、東塔は倒れたけれども、西塔は立ってあったということにならんと、うれしゅうないねん。それまでは薄氷を踏む思いです」というのがその時の西岡棟梁の思いでした。宮大工としての矜持ですね。
 
700年代の中頃、工人たちは、科学装置も情報機器もない時代に、木造建築物の耐震構造という、100年-1000年という長いスパンでしか判断できない構造物を、どうして建造することができたのか。
私たちが頼ろうとする科学機器に勝る、生来の動物的な感知能力が、先人たちにあったのでしょうか? 科学技術を発達させ、利用する過程で、私たちが失ってきたものは想像以上に大きいのかもしれません。


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