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050.浦舟水道橋(旧西の橋)

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物049/その他地区≫
*横浜市南区役所裏の中村川にかかる浦舟水道橋。右岸中村町から浦舟町方向を撮影。
右奥に見える建物は南区役所。
 
 ■115年前に建造された最古の橋
 横浜の中心部、中区から南西部にかけて、大岡川と中村川に挟まれた釣り鐘形をした平地は、かつて内海だったところを江戸時代の1660年ころに埋め立てた吉田新田と呼ばれる土地です。
 埋め立てた際に、ここに流れ込んでいた大岡川を3つに分岐し、左(北側)を大岡川、真ん中を中川、右(南側)を中村川とした。中川は昭和53(1978)年に埋め立てられ、大通り公園となっています。
 いま、根岸線の桜木町-関内-石川町と走るすぐ南側を道路が走っていますが、ここはもともと大岡川と中村川を結ぶ川が流れていたところで、この川の中村川との合流点から下流が堀川と呼ばれていました。それが踏襲され、今でも、元町の横を流れる川は堀川とよばれています。その合流点がJR石川町の近くにある西の橋のあたりです。西の橋は開港後、居留地ができたときに、山手と関内地区を結ぶ道として設けられた橋の一つです。
 大岡川は桜の季節にニュースで紹介されたり、桜木町駅や野毛の近くを流れていたりすることで一般にも知られていますが、中村川はあまり表に出てくることがありません。そのために知名度は横浜市民でも知っている人はよほど地理に詳しい人ということになるかもしれません。
 

中村川のうえに高速道路狩場線が走っています。

 何よりも、川を覆うように首都高速狩場線が走っているために、見た目が美しくないという声も多く、2級河川でありながら、あまり評価されないという大きなハンデを負っているかわいそうな河川です。花のお江戸のヘソだった日本橋が、上を首都高速に覆われてしまった結果、地盤沈下してしまったのと似ているといえるかもしれません。
 その中村川に沿っては、下流の堀川沿いにはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士の屋敷があったりと、開港以来の記念碑的な建造物もあったりするのですが、ここでご紹介する浦舟水道橋もその一つです。
 
 まずは写真を見ていただきましょう。見事な朱色の橋です。模型のおもちゃにもありそうなかわいらしい橋なのですが、これが実は、明治26(1893)年に作られた橋だといっても、なかなか信じてもらえないかもしれません。それも、明治中頃に特有のピン結合のプラット・トラス構造の、日本最古のものとされている貴重な橋なのです。
 100年以上前に作られた橋と聞くと無骨なずっしりとした重量感のある鉄骨橋梁を想像しますが、完全に裏をかかれた軽快さにまず驚きます。細身に思えるのは色の効果も大きそうです。
 京都・平安神宮の朱色はおなじみですが、法隆寺が朱色になったら違和感があるかもしれませんね。神社仏閣は古色蒼然というイメージが一般的な中で、最近は、薬師寺の西塔が再建されて色鮮やかな朱色を見せているのであまり驚かれないかもしれませんが、この橋の色も新鮮な橋のイメージを醸しています。朱色の持つ若さのイメージ効果ですね。

路面は板張りでとても歩きやすい。最上部に「浦舟水道橋」の銘板が見えます。

 ■お呼びがかかり3度目のお役目
 この橋、もともとは、浦舟水道橋の1.8キロメートルほど下流で「西の橋」として建造された、本牧通り、元町交差点近くの通行量の多い、なくてはならない橋でした。
 開港以来、外国人の多かった山手・元町地区と関内地区を結ぶ橋として交通量も多く、当初作られた木製の橋では痛みが激しく、利用者も増えたことから頑丈で、恒久的な橋の建造が求められました。そして要望に応えて明治26(1893)年に作られたのがこの橋でした。
  設計したのは神奈川県の設計技師・野口嘉茂です。構造物用の鋼材はまだ十分に日本で作れなかったためにイギリス・シェルトン(SHELTON)社から購入、長さ32.5メートルの橋でした。

橋桁に、製造者「SHELTON」の文字が見えます。

 ちなみに、日本で最初に高炉による連続製鉄が成功したのは、釜石鉱山田中製鉄所で明治19(1886)年のことですが、構造用の鉄材として十分な強度と品質が保証されるようになるには、八幡製鉄所が創業した、明治34(1901)年まで待たなければなりませんでした。
 西の橋はその後、大正12年の関東大震災(もう、聞き飽きたとは思いますが、ご辛抱ください)後の大正15(1926)年に復興事業として現在の、両端の支点にヒンジを設置した2ヒンジアーチ鋼橋に架け替えられることになったのでした。
 その際、もともとあった西の橋の橋梁は昭和2(1927)年、浦舟水道橋との中間あたりにある翁橋に転用されたのでしたが、翁橋は長さが短いために元の橋の交点間隔を短くして流用、下弦材にI型バーを採用しました。西の橋のオリジナルであったボルト(結合ピン)による部材間の結合はそのまま踏襲されました。

トラス構造の内側に手すりがつけられています。
トラスの結合部がピン(ボルト)で締められているのが分かります。

 翁橋に転用された橋は、その後の昭和62(1987)年、川の上に高速道路狩場線が建設されることになり、工事のために撤去された。高速道路が完成したあとの平成元(1989)年、トラス構造部分は浦舟水道橋に転用されることになり、人のみが通行する人道橋として赤く塗装されて3度目のお勤めをすることになった。
 ところで、浦舟水道橋という名前ですが、どう探しても水道管は見つからなかったので、横浜市橋梁課に伺ったら、かつてこの橋に水道管が併設されていたためにもともとの橋が「浦舟水道橋」と呼ばれていたそうです。現在は、水道管は併設されていないので、厳密にいえば「水道橋」ではないのですが、名称はそのまま踏襲され、浦舟水道橋と呼ばれている、とのことでした。
 
 プラット・トラス橋のピン結合とは、トラスのユニットを結合する場合、通常は鋼板で挟んでリベットで締めて接合するのですが、上の写真にあるように、ユニットとユニットの結合部をボルトで締めて繋いでいます。明治中期ころによく使われた構造で、これが使われた橋として、この浦舟水道橋はわが国最古のものだとのことです。
 緑に囲まれた朱色の橋もいい光景ですが、紅葉の頃にイチョウの黄色などがあると、モザイク模様もなかなかきれいです。ぜいたくをいえば、周囲のビルの色も調整したくなってきますね。
 川面を渡る風も涼しそう。ベンチでもおいて、夏は川風に吹かれて夕涼みでもしたくなりそうです。
●所在地:横浜市南区浦舟町2丁目

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