梶文彦

日本のものづくりは世界の財産です。わたしたちは、なぜこんなにコンパクトでこぎれいなもの…

梶文彦

日本のものづくりは世界の財産です。わたしたちは、なぜこんなにコンパクトでこぎれいなものづくりをするようになったのでしょうか? その背景をたずねてみましょう。

マガジン

  • 《昭和を切り開いた経営者の「逆転」する発想》

    安眠をむさぼる頭脳に心地よい一撃!  書籍や雑誌などに目を通していると、時々、なるほどと、うならせられる言葉にぶつかったりします。とくに、未成熟だった製造業・流通分野で創業し、日本経済を立ち上げてきた昭和の経営者の言葉は、常識と反対の発想、いわゆる「逆転の発想」と呼ばれる類いのものが多く、安眠をむさぼる頭脳に一撃を与えてくれました。  それらは言葉そのものの面白さだけでなく、その裏にある発想の斬新さや、不屈の精神、成功への執念、生きていることへの讚歌といったものを感じさせてくれます。そして何より、どんな逆境にあっても笑い飛ばせる諧謔精神に満ちています。     私にとっては、それはカタルシスと表現できるのではないかと思います。そんな言葉をご紹介します。気楽に読み飛ばしていただければ嬉しいです。

  • エトセトラ

    つけたし、などなど。日々思いついたこと、気になったことをメモ風に記します。

  • 横浜の洋館

    1859年の開港以来、横浜港は生糸貿易で日本の近代化を支えてきました。生糸商人たちが活躍した時代を感じさせてくれるのが洋館です。明治-大正-昭和の時代に作られた横浜の洋館をご紹介しましょう。

  • 横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流

    2015年5月4日、イコモス(国際記念物遺跡会議)は、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録を勧告しました。 本来ならば、その中に横須賀製鉄所の遺跡も含まれるところですが、米軍の基地内にあり、現在も使用中であることなどから申請から外されています。 日本の造船王国を生む原動力となった横須賀製鉄所の生い立ちと意義を、遺跡を訪ねながら眺めてみよう。

  • 横浜の開港と生糸貿易の始まり

    横浜に洋館ができるきっかけは、開港したあと、来日した外国商人によって、生糸が求められ生糸貿易が沸騰した結果、より多くの外国人が横浜に住み、外国文化が急速に取り入れられたことによります。 明治の開国以来、近代化に資金を必要とした明治政府は、その資金獲得に生糸貿易の活性化を目指しました。そして、生糸を横浜港に運ぶために鉄道を敷設しました。横浜が生糸貿易でにぎわい、多くの洋館が作られるまでの、開港から辰道敷設に至るまでの序章です。 生糸商人の活躍の舞台となった洋館については、《横浜の洋館・建造物》を参照ください。

最近の記事

  • 固定された記事

013.横浜市開港記念会館

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物013/本町通り周辺≫ ⇒改装のため、2024年4月まで休館中 *旧町会所(商工会議所)。タウンホールの前身で、会議室がたくさんあり、いまでも現役で使用されています。横浜三塔物語(キング、クイーン、ジャックの3つの塔を1日で回ると願いが叶うという言い伝え)のうちの「ジャックの塔」として知られ、横浜のランドマークのようになっています。  ■岡倉天心が生まれた地「町会所(まちがいしょ)」  大正6年(1917年)、 横浜開港5

    • 3-3. カネをとるか信用をとるか、カネがほしければ信用を先にとることのほうが本当だ。

        本田技研工業創立者 本田宗一郎  ホンダが躍進するきっかけとなったのは、1958年に発売した50CCバイク、スーパーカブの成功である。 操作は簡単、使いやすい、壊れない・・・とモノはいい、絶対の自信は持っている。しかし、当初は生産量が少ないので儲からない。といって戦後の経済が貧しいなかのこと、価格を上げるわけにはいかない。そんなジレンマのなかで、本田は価格を低めに設定して発売を決める。  結果はご存知のとおりで、スーパーカブは、はじめは損をするような商品だったが、性

      • 3-2. 「儲けたい」では儲からず。

          ワコール会長 塚本孝一  金儲けは、したいと思ってできるものではない。 だから、小賢しく、何かうまい商売はないか、どうやったら儲かるだろうか、と策をめぐらしても、まず成功しないと考えたほうがいい。  塚本も、かつて何度か会社とは別に個人で財産を増やそうとしたことがあったが、いずれも失敗に終わったという。 「財テクでまとまった金を生かそうと証券会社に預けたら、株が暴落して3000万円ほどの損害を被った」 起業家として評価の高い塚本でさえこうである。ましてや……とは言う

        • 3-1. 果報は練って待て。

           三洋電機元社長 井植 薫  戦後、たくさんの会社が高度成長の流れに乗って成長したが、つぶれた会社もまた多かった。その違いはどこにあったか。  井植 薫は、 つぶれるのは、果報が来るのを「寝て待つ」 からだと言う。 「チャンスは、懐に飛び込んではこない。自分から、つかみ取らんといかん。そのためにも、いつも、何事にも深い関心をもって、どう作るか、どう売るか、ヒラメクようにしないといかん」  だから、果報は「練って」待たないとダメだと言うのである

        • 固定された記事

        013.横浜市開港記念会館

        マガジン

        • 《昭和を切り開いた経営者の「逆転」する発想》
          34本
        • エトセトラ
          14本
        • 横浜の洋館
          64本
        • 横須賀製鉄所――造船王国・日本の源流
          35本
        • 横浜の開港と生糸貿易の始まり
          12本
        • いまに伝わるものづくりの技
          22本

        記事

          (9)シナ/中国における支配者のカリスマ性と正義

           中国の支配者には強烈なカリスマがあるといわれる。カリスマ性があるから共産党主席になった、と考えられていたが、実は、主席になるような人物にはカリスマ性がなければならないという、むしろ、後から付け加えられたカリスマ性であったという。  一般に政治のリーダーを支配者とは呼ばない。支配者とは、皇帝とか王とか支配権を持った征服者を言う。  シナでは、清国までの時代には、皇帝がいて、皇帝は、天命によって変わるとされた。それが中国語の本来の意味の「革命」だった。天命だから誕生した皇帝はそ

          (9)シナ/中国における支配者のカリスマ性と正義

          2-17.不安定こそ安定。

            NEC名誉会長 小林宏治  野球の完全試合やノーヒットノーランは、1点差とか2点差といった接戦の中でしかできないと言われている。少差では常に逆転の危険があるから緊張する。逆に得点差が大きいと、どうしてもゆるみが出てヒットを打たれやすいのである。  表題の小林の言葉もこれと似たことを言っている。この言葉は正確に言えばもう少し長い。  小林が社長に就任した昭和30年代末の日本電気は、会社も事業も電電公社ファミリーの通信機メーカーとして安定していた。大きな発展は望めないが

          2-17.不安定こそ安定。

          2-16.無借金経営はハングリー精神を弱める。

            堀場製作所会長 堀場雅夫  即断・即決をやろうとすると、決定権を自分の手に入れたくなるものだ。  金の工面を銀行と相談して……などとやっているうちに時機を失してしまう それならば、銀行のお世話にならなくてすむように、無借金経営にして自社で自由に意思決定できるようにすればいいと、誰しも思うだろう。  表題の言葉の主、堀場雅夫は、昭和20年代に無一文でスタートして以来、常に資金の工面で苦労を重ねてきた。測定器一つ購入するにも、銀行に日参しなければならない時代があった。銀行

          2-16.無借金経営はハングリー精神を弱める。

          2-15. 人生に遅すぎるということはない。

           日清食品会長 安藤百福    安藤百福は、48歳で元祖・即席ラーメンである「チキンラーメン」を世に問い、61歳の時にカップヌードルを開発。そして、85歳の今も新しい商品を世に問おうと研鑚を重ねている。  新しいことを始めるに当たって、つい、「もう今からでは遅すぎるのでは」あるいは「もう誰かが始めているのでは」と考えて躊躇しがちである。しかし、思いついたその時が始めるのにベストの時である……と安藤は言うのである。  チキンラーメン、カップヌードル、ラ王などの成功も

          2-15. 人生に遅すぎるということはない。

          (8)日清戦争――日・シナ関係の歴史的大逆転

           私たちから見る日中関係は、日本(倭)が歴史始まって以来、長い間、先進国として中国から学び手本として多くのことを吸収してきた。シナから見れば中国大陸(黄河中下流域の中原地域)を制した朝廷が自らのことを「中華」と呼び、長い間、自分たちは世の中心にあるとしてきた。  周辺には北には夷狄(いてき:東には東夷(とうい)、北に北狄(ほくてき)、西に西夷(せいい)、・西戎(せいじゅう)、南に南蛮(なんばん))という野蛮な敵がいて、服従させて貢がせる相手であった。志賀島から出土した金

          (8)日清戦争――日・シナ関係の歴史的大逆転

          2-14.インスタントな決断をすること。そういう体制を築いていかないと、商品の入れ替わりが早いこの業界のスピードについていけなくなる。

            日清食品社長 安藤宏基  石橋を叩けば渡れない、60点主義、1勝2敗の哲学、99%の失敗が1%の成功を生む……これらの言葉の底に共通して流れているのは、素早い意思決定である。この「インスタントな決断」もその一つである。 どんなに正しい決定であろうと、時機を逸してしまえば何の価値もない。乗りそこねた航空券は払い戻しも効かないのである。決める時期に、タイミングを外さずにいかに決断するか、いずれの言葉も、それを教えている。たとえば、と安藤は言う。 われわれのビジネスは加工

          2-14.インスタントな決断をすること。そういう体制を築いていかないと、商品の入れ替わりが早いこの業界のスピードについていけなくなる。

          2-13. 私は常識を破ったわけではない。もともと常識がなかったのです。

             京セラ会長 稲盛和夫  京セラの創業間もない頃、貸借対照表の見方すら知らない稲盛は、役員会で経理部長が歩積み預金の話をしたのを聞いて、「それは何か?」と説明を求めた。 手形割引などに際して一定の金額を銀行に預金する商慣行があるが、これを知らなかった稲盛は、「そんな銀行のリスク回避みたいな筋の通らないことはやめるべきだ」と主張して役員に笑われた。  ところがそれからしばらくして、大蔵省が、目に余る歩積み預金の要求をやめるように言い始めた。 逆転の発想とか、常識を覆し

          2-13. 私は常識を破ったわけではない。もともと常識がなかったのです。

          (7)現代中国語に革命をもたらした日本語

           ■漢字には品詞もなく、性も数も格も、変化もない。  ・所有を表わす日本語の「~の」に当たる文字として「的」、  ・位置を表わす前置詞的な「~に」は「在」や「里」などを入れ、  ・ (~に関して) 「関于」、  ・ (~によって) 「由于」、  ・(~と認める)「認為」)  ・ (~と見なす) 「視為」、 なども、日本語を翻訳する過程で生まれた。(P.515) ■日本語の表現力を導入し、句読点を入れる  さらに句読点を入れたり、横書きにしたりするようになったのも、日本文の

          (7)現代中国語に革命をもたらした日本語

          2-12. 日々の小さな破壊が創造性を生む。

            日本ケミコン会長 佐藤敏明  変えるとは、言い換えれば破壊が行われるということでもある。 佐藤敏明は30年前、コンデンサーの生産ラインに自社開発の自動化設備を導入し、生産性の高いラインを完成させた。これがうまくゆき、折からカラーTVブームで会社は発展した。これで、設備投資をして生産性を向上させる方向に、佐藤は自信を深めた。  そして、1993年、以前の成功体験をもとに佐藤はさらに設備投資を行い、一貫生産ラインを作り上げた。しかし、向上するはずだった生産性はいっこうに上

          2-12. 日々の小さな破壊が創造性を生む。

          (6)漢人にとって「公」とは、私腹を肥やす手段

          ■官吏のワイロは伝統芸  シナでは官吏に登用されるには厳しい「科挙」という登用試験に受からねばならなかった。科挙に受かるのは極めて珍しいほどの難関であり、万一登用されれば出世は保証される。そのため、親類に優秀な児童が一人でもいれば、親戚がこぞって入れ込み、何とか科挙に受かるように支援する。  物理的、金銭的、精神的にも入れ込む。長じて親戚の一人でも科挙に受かって官吏に登用されたりすれば、任地にまでそろって同行し、任務にまつわる業務に参加させてもらって、一緒に甘い汁を吸おうとす

          (6)漢人にとって「公」とは、私腹を肥やす手段

          2-11. 50年後もIBMがコンピュータを作っていたら、IBMは潰れているでしょう。

            日本アイ・ビー・エム会長 椎名武雄  前回ご紹介した大島の言葉「2-10.本業大事ではいつまでも本業大事の発想では新しい事業の創造などできない」を、さらに具体的に語ったのが、日本IBMの育ての親とも言うべき椎名武雄である。  IBMの本業はコンピュータであった。International Business Machineという社名から考えても、ビジネス用にIBM360パソコンンも全盛という時代背景から考えても、当時はコンピュータのないIBMは考えられなかった。しかし、

          2-11. 50年後もIBMがコンピュータを作っていたら、IBMは潰れているでしょう。

          2-10.本業大事では創造などできぬ。

            元小野田セメント会長 大島健司  たいていの会社はすでに本業を持っており、社員にも本業に関連する担当業務、専門分野がある。  一度獲得したそうしたものを手放したくないというのも人情である。改革と言いながら、どうしても昔のイメージを拭い切れないのはそのためである。  しかし、大島健司は、創造には本業大事がネックになると言う。  小野田セメント(現・秩父小野田)は創業以来、百年近くセメント一筋でやってきた会社である。その小野田セメントが、関連製品営業部を作って多角化に取り

          2-10.本業大事では創造などできぬ。