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松村圭一郎「くらしのアナキズム」ミシマ社

アナキズムというとすぐに「無政府主義」となるが、ここいうアナキズムは全く違う視点を提供している。国家の下にあっても、決して烏合の衆にはならず、「自らの生活、公共を守るための知恵を出し、潜在力を掘り起こしていく」ことを意味している。

当然、今自分たちがもっている常識、社会における前提のようなものを根底からとらえなおす作業が出てくる。その作業を起こすための資料としてまず著者はタイやミャンマーにおける少数民族が築いている「非国家空間=ゾミア」を提示する。

「ゾミア」は国の枠組みを投げ出し、自分たちで社会を築いていった事例を提供している。日本の場合、東日本大震災のような非常事態下において自衛隊は確かに動いたが、長いスパンでの復興を考えた場合、国は全く頼りにならず、まさに「小さなつながり」が鍵だった。

政治は政治家の専売特許ではない!ということだ。今は、選挙だけしてそのあとは放り投げてしまっている。投票率ばかり話題にするテレビをみてブツブツいうしか芸のない市民になってしまってはいないか?

生活者が政治を暮らしの中で自らやること、それが「くらしのアナキズム」の核心になっている。我々がその視点で考えず、政治家にまかせっきりになった瞬間に国家は暴走しはじめる。今回の「国葬」騒動などはその典型例といっていい。

多数派、多数決という暴力構造は必ず不幸を生み出す。だからこそどんな時でも自分たちで政治を生み出すことが求められる。すなわち生活を支えあい、社会の問題にともに向き合うなかで、安藤昌益の「もれる」という概念で富の独占を達成困難にさせたり、アフリカの人類学者ニャムンジョが訴える「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)」で不完全なもの同士の連帯、折衝、依存を実現させたりする必要がある。

日々の生活の中で、自由を阻害する暴力に敏感になり、その芽を摘んでいく。そして自分たちの生活をまもる。時には逃げ、時には連帯しながら、一方的な国家的支配から一歩離れて生活する。

著者の主張は一見、机上の空論のようにも感じる。でも、「くらしのアナキズム」の視点は今後さらにその重要性が増していきそうだ。「自分と自分たちを国は守ってくれない」という前提で「くらしのアナキズム」を如何に実践していけるか!大きな課題をあたえられた。


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