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改めてプロフィールを


ようやくnoteに慣れてきて、自分のプロフィールをもう少し丁寧に紹介したいと思いましたので、ここに綴ります。

生い立ち

1951年に生まれ四人兄弟の二番目。
山間の田舎から地方都市に出てきた次男坊の父親と、海沿いの田舎の末娘の母親の元に生まれました。
地元では進学校として有名な高校に進学したけど、父親の頑なまでのオンナに学力はいらんと言う信念のもと、怖い父に逆らえず(またそんなに成績も芳しくなかったので…)
高校卒業したら民間の電気メーカーに就職しました。

職場の花時代


先にnoteで書いたこともありますが、
当時の社会情勢、
女性は職場の花的存在であって、
何年か仕事をしたら、稼げる旦那を見つけて永久就職が1番ベターじゃないかと⁉️

当時25歳前には結婚して、
子供を作るというのが社会概念の
主流だったこともあり、
私が勤務する企業で会計課に30歳
過ぎの方がおられると、お局さまと揶揄されてたのも事実です。

当時私は企業の電算化、
IT化に関わる業務だったので、
プログラミングができなかったら
自宅に持ち帰って書類を広げて
難しい顔して仕事をしていた私を、父は心配もあったんでしょうけど
よく小言を言ってました。

22歳になる前に自律神経失調症に
なって休養していた私を見て、
ついに父のひとこと!
もうこれ以上その会社で働くな、
お前は俺に似て仕事人間になりそうだから、体を壊す!
とまぁ親の愛情だったんでしょう💦それでついに22歳前に
私はその企業をやめました。
考えたらその4年間で、
しっかり社会の大学?を経験したと思っております。

いわゆる職業婦人に

その後地元の市役所で職を得て、
働いてきました。
やはり女性は自分の力で稼いで
生活をすると言う気持ちを持って
いたので、働き続ける事は私の意思でした。

いろんな職場を回り、市民の方と
交流し、ときには恨まれることも
あったけど、やはり人が好きと言う自分の根本の性格があるので、
40年近く勤めましたね。

子育て時代

子供を3人持ちました。
私は自分が高校出てすぐ働いたことが、ずっと自分の中でモヤモヤと
あったので、女でも勉強がしたい子は上の学校にやらせるというのが私の願いでした。
父親によく言われたものです。
女は短大くらいで丁度よか!って💦

わが子は3人とも一応大学には
進学しました。

特に1番下の娘は勉強が好きだったので、地元を離れて他県の国立大学に遊学し、その後は就職難の波を煽ったせいもあり、
関東地区の大学院に進学しました。

嫁として

48年一緒にいた姑を昨年見送って、夫と2人暮らしです。
この一行で済むことは無いくらい!大変な同居生活でした。
詳細はあまり書きたく無いけど、嫁稼業を存分味わいました!

今は単調な生活の繰り返し、
近所に住む孫が学校帰りに立ち寄って一緒に夕飯食べてます。

努力家の末っ子、現在は民間住宅会社の課長になってる娘が、
仕事帰りに迎えに来るという
パターンの生活をしています。

そして今

リタイア後は、地域のボランティアをしながら民生委員も二期務めてきました。

暇な時にはさげもん手芸を始めて
絵てがみもしています。
太極拳もリタイア後に始めて10年過ぎました💦
アレもこれも欲張り婆さんです笑笑

以上私の履歴ですが、
こんな私がnoteを書き始めて、
記憶を辿りながら自分史(記録)を作ろうと思っているところです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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#昭和の時代に生まれて
#職業婦人の道を選び
#子育てをしながら
#親の介護をした

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