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【知られざるアーティストの記憶】第66話 彼からのささやかな贈り物

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第9章 再発

 第66話 彼からのささやかな贈り物

マリは彼への差し入れや贈り物を厭わなかった。もちろん、主婦の経済力の範囲内であるが、これまで質素極まりない消費生活しかしてこなかった彼にあげるものは、なるべく極上のものを選びたかった。その度に、夫との共有財産を彼のために勝手に使うことへの罪悪感が姿を現したが、マリは彼のためにお金を使うことは、例えばカフェでお茶をするとか大好きなスイーツを買うのと同様に、自分の趣味のためのお金であると自分に言い聞かせた。

神宝塩で増塩を目指すのと同じ路線で、マリは味噌の重要性にも思い当たり、彼のために備前より備長炭を用いて作られた高級味噌を取り寄せもした。このときばかりは彼も、
「こんなに高い味噌は要らないよ!スーパーで売っている味噌でいいんだよ。」
と不平をこぼしてみせたが、基本的にはいつもマリの好意を遠慮も抵抗もなく素直に受け入れた。

彼のほうからお返しらしいことは一切しないかのように見えたが、あるとき彼は、よく行く安売りスーパーの野菜の特売日に、大きなキャベツを2玉買ってきて、翌朝、帰宅しようとするマリに、
「キャベツ、キミの分も買ってきたから持って帰って。」
といつもの調子の声で言った。
(へえ!)
とマリはちょっと意外に思った。
「これで88円だった。」
彼が安さ自慢をするキャベツは、青々と柔らかそうな緑色を豊かに丸々と結球させた見事なお育ちで、その安さがちっとも似合わなかった。マリは彼の意外な好意をとても嬉しく思った。

それに気をよくしたのか、その後も彼はレタス、ブロッコリーと、安売り野菜を2つずつ買ってきてはマリに持たせた。彼が買ってくる野菜はどれもこれも、こんもりとした美しい出来ばえのものばかりであった。まるで彼が魔法をかけたのかと思うほどに。そして、彼がくれるキャベツやレタスの芯の部分には、日持ちをよくするために楊枝でいくつかの穴が開けられていた。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


2021年12月6日の午前中、マリはImakokoカフェにいた(→関連記事)。Sさんとりーさんの指導のもと、集まった魔女みたいな女たちと嬉々として順番に米糠を計り、フライパンで炒り、塩と混ぜる。カフェの中にむんとした米糠の甘い香ばしさが漂う。終わった者はハギレの山から引っ張り合いながら自分の布を選び、裁断し、袋を縫い始める。マリはりーさんが持参した渋い着物の生地を選んだ。ちくちくと手縫いする時間は女たちのおしゃべりを深くする。裁縫など何十年ぶりかわからないが几帳面であるマリの縫い目は、まるでミシンのように真っ直ぐだと、りーさんが目を丸くしながら笑い転げている。完成した糠袋は、りーさんの田んぼで獲れた無農薬の米糠、こだわりの天然塩、りーさんちの無農薬の鷹の爪やハーブがぎゅっと混ざり合い、マリが手縫いに込めた愛情を抜きにしても、この世のあらゆる愛の結晶を集め合わせたような一袋であった。

りーさんに褒めてもらったマリの手縫いも、彼が遺した縫製品の見事な出来栄えを思えば恥ずかしくなってしまうような代物であったが、
「はい、これ。」
とマリが手渡したときの彼は、
「……これ、キミが縫ってくれたの?」
といたく感動したような様子でそれを受け取った。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・16


その日の午後、マリがいつものカフェに到着すると、メイはマリの前のお客さんを施術中であった。T山麓にあるこのカフェの2階はドミトリーになっており、その部屋の入口前にある半個室のようなスペースをリモートワーカーに時間貸しもしていた。メイは足つぼのときにいつもそのスペースを借りていた。階段を登ってきたマリが異様な光景にぎょっとして立ち止まったのは、メイは友人であるお客さんの足を揉みながらタブレット越しに誰かと話し、お客さんの女性もスマホ越しに誰かと話していたからだった。

メイが話していたのは、淡路島に住むツインレイの研究をしている友人のマホであり、お客さんが話しているのもマホであった。なんでも、午前中にオンラインでマホのお話し会が開催され、その流れで3人でずっとオンラインでおしゃべりしていたのだという。

マホは人間の性格を4つのグループに分け、さらにそれぞれを、思考や行動の基準において理論を優先させる「ロジカル」と感情を優先させる「エモーショナル」の2つに分けて合計8パターンに分類するパーソナル理論を自ら構築した人であった。その理論を元に、個人の課題や成長、そして人間関係を分析し、そのなかでツインレイの関係を読み解こうとした。マホの理論では、この8つの性格の中でツインレイとなる性格の組み合わせが4通り決まっていた。(註1)

(註1)マホさんのパーソナル理論の詳細については、私には正確に説明することができず、誤って伝えるわけにはいかないことと、彼女の専売特許でもあることから、これ以上の説明は控えたいと思う。

マホは、ツインレイの悩みを抱える人へのオンラインセッションも行っていて、メイも足つぼのお客さんもすでに個人セッションを受けたのだという。

「マホちゃん、今なら時間あるみたいだから、マリちゃんの話聞いてくれるよ。どうする?」
足つぼの施術を受けに来たマリは、到着して早々、メイのタブレット越しにマホの個人セッションの入り口に着いてしまったようだった。マホは時々高らかに笑う、ハキハキとした明るい女性で、その芯の強さからマリよりは年上に見えたが、実は同い年であった。マリは戸惑いながら、まだメイにも、この世の誰にも話していない話をタブレットの向こうにいるマホに話し始めた。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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