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日本で生活するモルドバ人 ~モルドバで聞いてみた④

「旅先で聞いた話」シリーズのモルドバ編。今回は第4回目で、最終回。

これまでの3回の投稿では、モルドバが経済的に生活がとても苦しいという話や、一つの国にも関わらず言葉・価値観・国土等がバラバラなことについて書いてきた。

今回は、その中で出てきた話の「モルドバの2世帯のうち1世帯では、誰かが国外へ出稼ぎに行っている」という話の流れから、「日本で出稼ぎして生活しているモルドバ人」について聞いた話を書いてみる。

日本で出稼ぎして生活しているモルドバ人

モルドバ人
「私の友人で、モルドバから日本へ出稼ぎに行って働いている人がいるんだけどね。話を聞いていると、日本で生活するってことは、他の国で働くのと全然ちがうらしいねー。

例えば、日本社会で生活するなら、常に自分をコントロールして、自制することが求められるんでしょ。喋るときも、頭に浮かんだことを一気にしゃべったら嫌われる。日本人には『ものには順序』っていう考え方があって、それを守って順序だてて喋らないとダメだって。そして喋る内容も、ちゃんと地に足の着いた確証のあることしか喋ったらだめだって言ってた」


「ははは、日本社会の事情をよくご存じで。確かに、日本人の会話って、そのあたりに気を遣わないとね。モルドバ人は違うの?」

モルドバ人
「モルドバ人は逆に空を飛んでるような性格で、頭に浮かんだことを好き勝手に喋って、本当かどうか怪しいこともパーパー喋る。でも、それは日本では通用しないんだよね」


「いやー、僕が話したモルドバ人はみんなきっちりしていて、別におかしなことを喋っているような人はいないと思ったけどね。

でも、まあ仮にそうだったとして、日本に住んでいるモルドバ人は、日本の文化や行動様式に馴染めなくて苦労しているの?」

モルドバ人
「いやそれがね、出稼ぎしているモルドバ人たちはどうやって折り合い付けてるか分からないけど、そんなに人々の考え方が違う日本でも、みんな楽しく満足しながら生活しているみたい」

ということで、日本で住んでいるモルドバ人たちは、日本に馴染んでいるらしい。

ちなみに、この「日本人は発言にとても気を付ける」という文化については、僕がコソボを旅行した時にもコソボ人から指摘された。その人は日本文化にとても詳しい人で、「その考え方は日本人が侍文化を受け継いでるからだよ。侍は言葉に魂を込めるからね。日本人の発言は常に命がけだよね」って言われた。

その時は「またまた~、この時代に侍の精神なんて残ってないよ」って言った。けど、後から折に触れてその言葉が何度も何度も自分の中で蘇ってきて、今では僕も「日本文化の中では、発言に魂を込めることを求められるなあ、侍文化を引き継いでいるよなあ」って心から思うようになった。

外国人から指摘されることって、自分では意識していなくても、本質をついていることが多いと思う。


ひと言コメント

さて、これにて4回に亘る連載「モルドバで聞いてみた」シリーズを終わります。

読んで下さった方々は、どう感じられたでしょうか。

僕が話を聞いた範囲では、やはりモルドバは社会としてとても苦しい状況にあるという印象が強い。

じゃあ、モルドバ人は能力が劣っているのか?人として特に悪い人ばかりなのか?逆に、世界から食い物にされるような、お人よし過ぎる人たちなのか?

いや、僕が現地でモルドバ人と話をした範囲で感じた印象は、モルドバ人たちは、ちゃんとした「普通の人たち」だった。

彼らが特に能力的に劣っているような感じはしない。ヨーロッパの人らしく、論理立てて話をしてくれる(だから聞いた話を記憶しやすかった)。そして特別に悪い人という印象もなく、また逆に特別お人よしな人たちという印象もない。普通にきっちりコミュニケーションできる人たちで、今回の経験でもまた、「人って根本的なところはあんまり違わないな」っていう思いを強くすることになった。

でも現実には、モルドバの社会は経済的に生活がとても苦しくて、お世辞にも良い社会を築いているとは言い難い

だから実感として、世の中の不条理を感じる国でもあった。

ちなみに、今回の旅行で一番印象に残っている風景がある。宿泊していたホテルで働いていた女性が、18時間は連続勤務したであろう後で、ホテルから退勤するとき。彼氏か旦那さんがホテルの前で待っていて、遅い午後の暖かな空気の中を、二人で一緒に手を繋ぎながら歩いていった。僕はたまたまその二人の少し後ろからついて歩く形になって、その二人の姿をなんとなく見ていた。

その女性は、前夜の深夜に2時間に亘って僕と話をしてくれて、モルドバの厳しい生活事情について感情豊かに(時に公序良俗に反する言葉を使って)熱弁をふるって教えてくれた人。

そんな前夜の彼女とはうって変わって、夕日の中を手を繋いで歩く彼女の姿は、平和そのもの。そこにはありありと「日常の幸せの一つの形」があった(と僕は感じた)。

願わくば、これからもずっと彼女ら/彼らが「日常の幸せの一つの形」を享受し続けることができますように

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ところで

最近僕がnoteへ投稿してきた話を振り返ると、、、年末時期の投稿は「ドイツのクリスマス文化シリーズ」など、耳障りの良い、いい感じの話が続いていた

でも今回のモルドバ旅行シリーズは、社会の歪みに焦点を当てたような社会派ネタ

僕のnoteを読んでくれている人は「こいつは一体何に興味があるねん?」と混乱したかもしれない。

でも、いずれの話題も、僕にとっては「人っていったい何だろう?」という点で共通している。

例えばクリスマス文化シリーズの話を例にとってみると、、、ドイツで毎年行われているクリスマス行事は、昔の人々が生み出してきたクリスマスにまつわる風習を、後世の人たちが綿々と受け継いできたもの。そうやって受け継がれてきたものが「クリスマス文化」として定着していった。

では、なぜドイツでそのクリスマス文化が受け継がれてきたかというと、その行動を行うことが自分たちの幸せにつながると思っている、ということだと思う。意識しているのか、していないのかは、さておいて。つまり、文化というものは、「何が人を幸せにするのかを示している」から、それって「人っていったい何だろう?」ということの一側面を表していると思っている。

そして今回投稿したようなモルドバで聞いた話からは、世界の歪みや問題が堆積したような現実が浮かび上がってきた。

世界の人々は、原始の時代から営々と社会生活を営み、人々はある時はエゴイスティックに行動し、ある時は慈悲深く行動し、その結果として現在の世界がある。もちろん完ぺきな社会なんてないけど、でもこの21世紀の時代になっても、未だモルドバのように、基本的に人々が苦しい状況に陥っているような社会も残されているそれもまた、「人っていったい何だろう?」という問いに対する答えの1つのカケラであることは確か。

ということで、いい感じの話も、苦しい話も、いずれも「人って何だろう?」という問いに対する答えの一つという意味では、僕にとっては全く同じように興味がある対象だから書いてみました。

by 世界の人に聞いてみた

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