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ドイツのクリスマスに、なまはげを

なんなんだ、このタイトルは。と思われた人もいるでしょうか。

身もふたもないタイトルなんだけど、そうとしか言いようがない存在がドイツにいる。

アメとムチ

ドイツの子どもにとってクリスマスといえば、やはり家族で一緒に楽しく過ごしてプレゼントをもらえる、ウキウキするイベント。

そうなんだけど、子どもというのはいつでも「いい子」である訳がないのは、世界中の常のようだ。

親としては「いい子」じゃない子どもには、クリスマスという「アメ」に対して、「ムチ」をつかっていい子にさせようとするもの。

ドイツでは、そんな「ムチ」になる存在が「クランプス」と呼ばれる。ドイツ語で書くと「Krampus」。ドイツ南部で特にメジャー。

こちらのかたです

「Krampus(クランプス)」は、中欧の伝説や民間信仰に登場する伝説上の存在です。クランプスは、しばしばクリスマスの時期に登場し、サンタクロースとは対照的なキャラクターとされています。

クランプスは悪い子供たちや不道徳な行動をした者たちを罰する存在とされています。彼はしばしば悪魔のような姿で描かれ、角が生え、毛深い体毛を持ち、時折、くちばしや鋭い爪を備えています。クランプスは、子供たちに「良い子であれ、そうでなければクランプスがやってくる」と言われ、彼の到来は恐怖と尊敬をもたらすとされています。

クランプスの起源は中世のヨーロッパにまで遡り、異教的な伝統やキリスト教の信仰が混ざり合った結果とされています。クランプスは特にドイツ、オーストリア、スイス、ハンガリーなどの中欧の文化で広く知られています。

ChatGPTさんが語ってくれたクランプス

ドイツのクリスマス界の中では、クランプスはニコラウス(サンタクロースの起源)とコンビになっている。いわゆるサンタクロースのようなポジティブな存在であるニコラウスに対して、闇バージョンというか、裏バージョンというか、そんな存在。

ドイツにおいてニコラウスは、12月5日くらいの夜中に、良い子の靴の中にお菓子を入れてくれる。それに対してクランプスは、悪い子の靴の中に木の枝のムチを入れておいたり、または子どもを袋に入れて自分のねぐらへ連れていってさらったり。という感じで、恐怖や闇を象徴する恐ろしい存在。

西欧らしいと思うのが、ニコラウスのような「喜び、光」を象徴する存在に対して、クランプスは「恐怖、闇」と明確に対比されている。つまり、分かりやすい二元論的な世界観になっている。

日本の世界観だと相手の立場に立つことが美徳なので、もうちょっとひっくり返った見方をするような気が。「いやいや、クランプスもあいつはあいつで、実は喜びや悲しみを抱えていてなぁ・・」的な存在になりそうだけど。

と思って、クランプスの日本バージョン(?)と言えそうな「なまはげ」を調べてみたら、、、なまはげは「五穀豊穣、無病息災をもたらす神様」らしい。ということで、なまはげさんの方は単純な悪の存在ではない様子。やはり。

二元論

ちょくちょく書いているように、ドイツでは二元論的に「良いことと悪いこと」を明確に切り分けて分類することが多いと感じる。

僕の見方では、その背景の一つは気候風土。ドイツの夏は暑すぎずカラッとして明るくてサイコー。冬は暗くて寒くてジメジメしている。やはり「良い季節と悪い季節」に分かれていると感じる傾向があるので、その感覚がものごとを「良い、悪い」と切り分けることにつながるのでは。日本の「春はあけぼの」みたいに「四季それぞれに良し悪しがあるんやでー」という気候風土とは違っている。

あと、ドイツは別の国々と地続きになっている大陸にある国。だから異民族の侵攻と防衛を繰り返してきた歴史も影響して、やっぱり「善と悪」という世界観が根付くのではないだろうか。島国の「話せばわかる」という日本とはまたちょっと違っている。

クランプスには、そんなドイツの気候風土と歴史がギュッと詰まっている気がする。

写真

ちなみに、クランプスの写真はロクなものが撮れたことがない。

出現するクリスマスの季節は、冬。ヨーロッパの冬は暗い。ええ、ドイツの冬はとても暗いのです。

ドイツで働いていたときに、クリスマスイベントで食事したレストランで、クランプスが徘徊していた。

写真を何枚か撮ったけれども、クランプスは暗いところに出てくるから、キッチリした写真が撮れるわけもなく。

でも、それでいいのだろう。バッチリと高精細に写った映えるクランプスなんて、そもそもの趣旨とは違う単なるコスプレーヤーになってしまう。

あなたにとってのクランプス

さて、今回はクランプスについて頭に浮かんだことをツラツラと記事にしてみた。

ニコラウスとクランプスのコンビは、「子どもにはアメとムチのセットが効く」という世の中の真実を教えてくれている。

でも一方で、人は成長するにつれていつの頃からか、世の中はそれほど明確な二元論でクッキリと光と闇に分かれているわけではない、ということを学んでいく。

ただ、たとえ大人になってからであっても、人のこころというものはクッキリとした「光と闇」や「善と悪」に分けたがる性質を持っているもの。その方が脳が処理しやすくてラクで快適だから、だと思う。

実際、そういった分かりやすさは、物語(ナラティブ)となって人を引き付ける力とエネルギーを生む。人の性質に合っているからだろう。それはそれで、必ずしも悪いものではない。

でも時に分かりやすさは、不寛容や独善につながることも。こころのどこかでは、自分が絶対的な正義や善ではない、ということを留保しておく必要があるのだろう。

そう、つまり、大人にとっての「クランプス」が首をもたげてきたときには。いやいや、こいつは現実の世の中にいるものではないゾ、と自分のこころを現実世界に引き戻すこころの余裕が必要なのでしょう。

by 世界の人に聞いてみた


この記事はKaoRuさんの記事に触発されて書きました。お住まいのチェコでクリスマス時期に見られる天使と悪魔について解説されている、地に足の着いた味わい深い記事です。 ↓


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