まずは声をあげてみる
当時はまだ、コロナ禍の真っただ中だった。
僕はドイツで生活していた。コロナが広がってから初めて迎える冬の足音が大きくなるにつれて、感染者が爆発的に増加。そんな状況を目の当たりにして、みんなが身構えていた。あれは2020年秋のこと。
そんな中、ドイツ政府はコロナ対策のため、2020年11月から「劇場・オペラ座・コンサートホール」等を閉鎖すると発表した。
それが発表された数日後の週末。
市内を息子と一緒に自転車で走っていたら、これら芸術に関連する仕事をしている人たちが道沿いにずらーっと並びながら、プラカードを持って無言で立ちつくしていた。
当時のコロナ対策の規制では、屋外であっても人と人の距離は1.5mずつ間隔をあけなければいけない。列の距離を後から地図で測ってみると、約1.5km。計算すると、ざっと1000人が参加していたことになる。
さて、今回の投稿はそのときに感じたドイツ社会の特徴について。
これは時事ネタではなく、社会の根幹部分について感じるものがあった経験だったから、今さらながら当時のことを書いてみる。
意思表示する人たち
このデモンストレーションに参加している人たちは、劇場や演劇などの関係者と思われる。舞台俳優やアーティスト、楽器の演奏者もいるだろうし、裏方の人たち、さらに彼ら/彼女らの友人なども参加していた様子だった。
下の写真のプラカードに書かれているのは、このデモの統一テーマ。
"Ohne Kunst & Kultur wird's still !"
日本語に訳すと、
「芸術や文化なしでは、静まりかえってしまう!」
あと、Kunst(文化)の真ん中の3文字「uns」の部分は、色を変えたりカッコで括って強調している。unsは「私たち」だから、「私たちなしでは、静かになっちゃうよ」という二重の意味が込められているのだと思う。よくできている。
このデモを一緒に目にした息子が言った。
「読んだ人に何をしてもらいたいかをはっきり書かないと、意味がなくない?」
という息子の何気ないコメントを聞いて、僕の中で繋がった。彼ら/彼女らにとっては、そうじゃない、ということに気がついた。
この時に彼ら/彼女らがどのような思いでデモを行っていたのか。僕が普段のドイツ人たちの言動から想像したことが4点あった。この想像が正しいか分からないけれど、そう遠くないのではと思っている。
①まずはなんでもいいから声を挙げることに意味がある
コロナの状況では、演劇もオペラもコンサートも、昔のような形で開催することが難しい。それは皆さん分かっていた。
そして、問題をすぐに解決できる魔法の杖が無いことも、みんな理解していた。
でも、まずは「現状のままでは良くない」ということを社会に知ってもらうことに意味がある、ということなのだろうと僕は解釈した。
今が理想の状態でなければ、まず声を挙げてみる。「解決策がないのに言ってどうするんだ」「どうせムダだよ」「何も変わらないよ」という無力感に支配されている社会ではない、ということだと思う。
②無表情や沈黙は人間らしくない
印象的だったのが、みんな仮面をかぶったりマスクをつけていたから、表情が分からない。さらに誰もがみな押し黙っていた。
つまり、一切の感情や人間らしさが失われていた。息子はその不気味さに、おののいていた。
彼らはあえてこういう表現方法を選んだのだろうと思う。
ドイツ人たちは一般的に、とりわけ「人間らしさ」を大切にしているから、「芸術がないと、無表情で沈黙が支配する不気味な世界になってしまう」というメッセージだと、僕は解釈した。
日本文化の文脈では、無表情や沈黙は必ずしもネガティブなイメージだけではないけれど、ドイツ文化ではかなりネガティブな印象を与えるはず。その分、デモのメッセージ性が高まり、充分効果的になるだろうと思った。
③人は情報を発信する義務を負う
日本人は常に他人のことをおもんぱかる文化だけど、日本以外の多くの国は、必ずしもそうではない。
その根底にある構造として、日本では一般的に「聞き手が理解する責任」を負うが、日本以外の多くの国では「話し手が相手を理解させる義務を負う」と言われることもある。
だから、困っている人たちは、自分たちでそれを発信しなければいけない。黙っていること自体が良くないので、まずは声をあげてみなければいけない、という感覚があると思う。
④社会への信頼
そして、実はこの4つ目が僕が最も注目したところ。
自分たちが社会にとって意味あることを主張していたら、必ず誰かが社会を良い方に変えるアクションを取ってくれる、ということを信じているんだと思う。
つまりデモに参加していた人たちは、これを見た人たちの中には何らかアクションを取ってくれる人たちがいるはず、と信じているのでは。
たとえそれが、自分の意見や感じたこととして、家族や職場の同僚たちと、家や飲み屋で語り合うだけであっても。
多くのドイツ人たちはそうやって語り合って、意見を言葉にしてみんなで確認し、それを基に自分の意見をさらにより良くしていくことに、価値を見出していると感じる。
そして、そのような行為がみんなの意見となって、社会の運営に影響を与えていく。
つまりそれは、民主主義を効果的に運営するための根幹の部分。このプロセスなしには、いくら社会の制度として民主主義を適用していたところで、うまく機能しない。多くの人たちは、そうやって自分たちの手で社会がうまく回るように運営している、という意識を持っていて、信念を持って実行しているのでは。
という、このデモに対する僕の解釈がマトを得ているのか、外しているのか。それは分からない。
ただ、コロナの状況下で、ドイツの社会がどう機能しながら成り立っているのかを改めて垣間見るヒントを体験したことが、とても印象的だった。
まとめ
みなさん、この「デモ」を見られて、どう感じられたでしょうか。
日本でデモというと、ネガティブなイメージを持たれたり、「自分は関係ないよ」というスタンスを明確にしたくなったりするケースもあるのではないでしょうか。
日本文化では、デモというものは「抗議」「クレーム」「決裂」といった文脈が強いケースもあるだろう。「和をもって貴し」としている日本文化とは、相容れないかも知れない。
ただ、このデモをみて、その背後に僕が感じた文化的な文脈(が正しいかどうかはさておいて)を読んだ上で、こういう形のデモについて考えてみると。
これはこれで健全な社会にとって必要なこと、という可能性を感じることはないでしょうか。
そして日本に合うように、少し形を変えてみると。
たとえば僕がnoteでいつもよく書いている「自分が考えていることを言葉にしてnoteで発信することが、社会の幸福の一歩になるかも」ということと、共通点があるのでは。
カタチはさまざまであっても、こうやってデモで、noteで。まあ、友だちとの飲み会で、でもなんでもいいんだけれど。
みんなが考えていること、感じていることを、素直に建設的な形で意見として声をあげてみることは、良い社会に近づく第一歩になるのでは。
そう、
自分の考えや思いを表明しないと、社会が静まりかえってしまう!
のではないでしょうか。
by 世界の人に聞いてみた
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