見出し画像

身近にある「国際社会」

今回は、イスラエルとパレスチナの紛争のニュースを読んでいて思い出したことについて。

以前ドイツに住んでいた当時は、街の中で頻繁に「デモ」を目にした。

分かりやすいキャッチワードを書いたプラカードを掲げて、シュプレヒコールをあげながら。いろんな主張の、いろんな雰囲気の、いろんな熱量のデモを目にしてきた。

ここで興味深いのが、明らかにドイツ人ではないグループがデモを実施しているケースが多かったこと。

声をあげている集団は、例えばクルド人だったり、アフガニスタン人、ウクライナ人、南米の人だったり。多種多様な出身の人たちがドイツで声をあげていた。

そういった集団がテーマにしている内容の多くは、ドイツを非難するものではなかった。

「自分の国が他国から侵略されている」とか「自国の政府がわれわれ少数民族を弾圧してる」とか。そういった自国で起こっている問題について、ドイツの地でプラカードを掲げて抗議の声を上げている

つまり彼ら/彼女らがどういう狙いでデモを行っているかというと、政治的・経済的に弱い立場の人が、自国・自民族では解決困難な問題についてドイツで声を上げることによって「国際社会に対して解決を求める」という行動だった。

「国際社会」へ頼らざるを得ない人々

最初は、この人たちはなんで自国のことについてドイツでデモを行うのだろう?とピンとこなかった。

でも、ヨーロッパでの生活が長くなってくると理解できるようになってきた。彼らからすれば、国際社会にアピールする以外に有効な解決の手立てが存在しないということが。

実は、自分たちの手で自国の問題を解決できる国は、世界の中でそれほど多くない。

経済的に大きな国やNATOなど集団防衛の枠組みに入っている国は、ある程度は自国や仲間の国で解決できる手段がある。

しかし、経済的に小さかったり、あまり国際社会から注目されていない国や民族で紛争が起こった場合は、自分たちで事態を打開する目途がない状況に陥るという事例が山ほどある。延々と隣国との泥沼の紛争から脱却できない小国や、注目されていない民族問題など。

ここでは特定の国や民族の肩を持つ意図は全くないんだけど、、、具体的な例を挙げてみると、民族問題でいえば例えば「国を持たない世界最大の民族」といわれるクルド人問題。三千万人ともそれ以上とも言われる。その規模の一つの民族がトルコやイラクなど4つの国へバラバラに分割されて統治されていて、その結果として様々な問題が起っている。

国際紛争についていえば、現在の戦争が起こる前のウクライナも既に長年にわたってロシアとの問題を抱えていたので、僕がドイツに住んでいた当時からよくウクライナ人のデモを目にした。

そしていま注目を集めているのは、解決困難な紛争の代名詞にもなっているイスラエルとパレスチナの問題。

こういった国や民族は「国際社会」から擁護されるのか、それか非難されるかによって、情勢が自分たちにとって有利にも不利にも大きく分かれていく。そうなると、世界の大国が発言権を持つ「国際社会」を味方に引き入れようと必死になるのは当然の成り行き。

21世紀の世の中であっても、まだ「国際社会」の風向きによって、そして武力によって、市井の人々の人生は大きく変わっていく。

なぜドイツでデモを行う?

では、どの国が「国際社会」で影響力を持っているのか。

基本的にはダントツでアメリカが重要な国。軍事力、経済力、政治力、基軸通貨、人口などで圧倒的な影響力をもっている。なんだかんだ言っても国際社会で圧倒的なプレゼンスを持つのは、チカラの国、アメリカ。ニューヨークには国連本部もある。

ただ、数十年前から長期トレンドとしてアメリカの相対的な地位は弱まり、世界の多極化が進む。また、トランプ政権時代など他国への関与が薄くなる時期が歴史的に繰り返されてきたり、あと最終的にはアメリカ自身の権益を最大化することが目的であるため、やはりアメリカ頼り一辺倒では心もとない。

となると、次はどこの国や地域に目を向けるか?そこでEUに視線が移る。歴史的に政治力があり多国間の利害調整にも慣れているし、またそれなりの経済力や人口を抱えている。

EUといっても多数の国があるけれど、その中で特に経済規模から影響力の強い国がドイツ。今年はGDPで日本を抜いて世界3位に上昇するとの見通しも。ということもあって、ドイツにおいてデモをすることも、国際社会へアピールするための重要なルートの一つになっている。

国際社会へ声をあげる人たち

さて、今であればやはりイスラエルとパレスチナの紛争が世界で注目を浴びている。

既に当事者同士の話し合いや交渉で合意できる地点があるとは思いにくく、特に軍事力で勝てるとは思えないパレスチナとしては、国際社会からの擁護や支援を求めるのは自然な流れ。世界の様々な都市でデモが行われているという情報を目にする。

そんなこんなで、今日も世界のいろんな国々で国際社会へ解決を求める声をあげる人たち。

世界の大国が「自国優先」の風潮になり、国際社会が各国の問題へ関与する姿勢が弱くなると、結局はこういうデモをしている人たちにしわ寄せが来てしまうのが現実。ただ、その一方で、国際社会が介入することによって逆に混乱したり解決が遠のくケースも非常にありがちだけど。そしてそもそも、現在の国際問題の多くは昔の大国が作り上げたケースも多いということを忘れてはいけない。

日本人としては

なんだかんだ言っても、やはり多くの人口を抱えつつ、それなりの経済力と技術力も持つ日本。

そのような立場の日本から見ると、異国の地で自分の国の擁護を求めなければならない人たちの心情は、かなりの想像力を働かせないと理解できないだろう。

僕もバルカン半島や東欧など様々な国を訪れて、現地の人たちと彼らの抱える問題について話を聞いてきた。けれど、当事者たちから直接話を聞く経験が何度もある僕自身であっても、彼ら/彼女らの気持ちについて・・、腹の底から理解できるとは決して思えない。

今でも忘れられないのは、(ややこしいので解説は省くけど)アルバニア人の国であるコソボの中に存在するセルビア人地区に住んでいる修道女と話をしていて、彼女が言った言葉。

セルビア人修道女
「世の中は、力のある人たちが自分たちの都合の良いように物事を運ぼうとする。でも世の中ってそんなものよね。この地域だけじゃない。世界中がそう。そして私たち力が弱い人たちは、そういう世界の中でどうするか、ってことでしょ」

このように彼女は、世界の現実と、その達観した人生観を語ってくれた。

彼女の言っていることは、僕は頭では理解できる。でも、じゃあ彼女の感覚と自分の感覚が共振するほど理解できたかといえば、、、そこには限界がある。

でも、よく考えてみると。あと十数年か、もうちょっとしたら、日本も状況変化によって、国際社会とやらに助けを求めている状況になっている可能性も充分にある。望むと望まざるとにかかわらず。

その時になってはじめて、彼女の語ってくれた心境が、自分もようやく腹の底から理解できるようになっているのだろうか。

by 世界の人に聞いてみた

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?