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キリストの昇天にあって

2024年5月12日 礼拝

使徒の働き1:3-9

1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

タイトル画像:Betty VerheijによるPixabayからの画像


はじめに


今日は、昇天日を取り上げていきます。キリストの復活40日目に起こったことです。今年の昇天日は、5月9日木曜日にありました。
この日は、私たちがキリストの死と復活を祝った後、彼が天に昇り、神の右の座についたことを記念する日です。

使徒たちが見つめていた空に、キリストが雲に包まれて昇って行く様子を思い浮かべてみてください。それは、私たちが地上の生活を超えて、天を見上げることの大切さをあらためて知る瞬間です。

キリストの昇天は、私たちがこの世だけでなく、霊的な世界にも目を向けることの重みを教えてくれます。それはまた、私たちが神の愛と恵みを通じて、自身の人生を超越することができることを示しています。キリストが天に昇ったことで、聖霊が私たちの中に降りてきました。その助け主が、私たちを導き、慰め、力づけてくれます。

今日、私たちはキリストの昇天を祝い、その意味を深く理解し、それが私たちの生活にどのように影響を与えるかを考えていきましょう。
私たちは、キリストの昇天が私たちに与える希望と喜びを共有し、神の愛と恵みを讃えていこうではありませんか。

昇天日のできごと


主イエス・キリストは十字架の苦しみを受けた後、復活されました。復活後、四十日間、使徒たちに現れ、神の国のことを語りました。これは、主イエスが死後に復活し、その存在が確かなものであることを使徒たちに示しました。

主イエスは4節で使徒たちに、エルサレムを離れず、父からの約束を待つように命じました。この「父からの約束」とは、聖霊のバプテスマを受けることを指しています。これは、イエスが天に昇った後、使徒たちに聖霊が下りてくることを予告したものです。

こうした主の言葉に呼応して、6節で使徒たちは「父からの約束」を聖霊のバプテスマであることを知らない彼らは、ローマ帝国の支配を受けていたイスラエルが、独立国家として国を再興することと誤解します。

イスラエルが独立自治する時期について使徒たちが尋ねましたが、7節でイエスはそれは父が定めることであり、使徒たちはそれを知る必要はないと述べました。これは、神の計画と時は人間の理解を超えているということを示すためでもありました。

8節には、イエスは、「神の約束」である聖霊が使徒たちの上に臨むとき、彼らは力を受けること、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで、イエスの証人となると述べました。これは、聖霊の力によって使徒たちはイエスの教えを広める伝道を果たすことを示しています。

こうした言葉を残した後、9節でイエスは使徒たちの目の前で天に昇り、雲に包まれて見えなくなりました。これは、イエスが物理的な世界を超えて神の元へ戻っていきます。

11節で唖然と使徒たちは天を見つめていたとき、白い衣を着た二人の人物が現れ、イエスが天に昇った理由と、イエスが同じように再び現れることを告げました。これは、イエスの再臨、つまり再び地上に現れることを予告したものです。

こうして、昇天の日の出来事について見てきましたが、ここで注目すべきポイントを見ていきたいと思います。

イエス・キリストの40日間

使徒の働き1:3
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

3節を見ていきますと復活後40日目に天に昇られたとあります。この箇所は、復活から昇天までの時間を記している唯一の箇所になります。

聖書における 数の概念を数意論といいますが、「40日間」は、聖書の中で頻繁に見られ、試練や審判の文脈でよく現れます。そのため、多くの学者は「40日間」を「試練」または「試用期間」の数と理解しています。
「40日間」は、文字通りの意味も持ちますが、困難や苦難の時期を強調するために神がこの数を選んだようです。

「40」はしばしば歴史の新しい展開があること,特に救いとさばきとのかかわりで用いられる.

ノアの時代の洪水は40日間地上にあった(創世7:17).イスラエルが不信仰のため荒野をさまよったのは40年であった(民数14:33,34).
犯罪人に対してはその罪に応じて40回までむち打ってよかった(申命25:3).
エジプトへのさばきも40年間の荒廃として語られている(エゼキエル29:11,12).このさばきに対応する恵みも示されていることにも注意すべきである.これらの期間の後,主の恵みが再び示される(創世8:6,エゼキエル29:13).
ニネベは40日間さばきへの猶予期間が与えられた(ヨナ3:4).
モーセは40日40夜シナイの山で主とともにいた(出エジプト24:18,34:28).
イエス・キリストは公生涯の初めに40日荒野におられてサタンの試みを受けられた(マルコ1:13).

「聖書の数意論」 新キリスト教辞典 いのちのことば社   

「10 」は聖書の数字で完全性や完結を意味し、「40」は神の証明「試練」を意味します。 「40+10」で50(ペンテコステ)となりますが、それは、旧約時代の完成を表し、キリストの体である、教会時代(新約時代)への移行を意味するものとなります。

こうして、 50日目(ペンテコステの日)の終わりに、すべての信者は 聖霊のバプテスマという「父の約束 」を経験することになります。

こうして、復活してから昇天までの40日間はどのような期間であったのかといえば、単なる期間の記述でなかったことがわかります。
これは、モーセ(出エジプト記24:18; 申命記9:9; 申命記9:18)やエリヤ(1列王記19:8)の以前の歴史にあったように、荒野での誘惑の40日間(ルカ4:2)に対応するものであったことが理解できます。

主イエスは、この40日間に間欠的に使徒や弟子たちにその姿を見せましたが、以前と同じように、主は孤独で父と交わり、悪の力によって試されたり誘惑されたりすることはなく、ヨハネによる福音書17章にある偉大な祈りのような執り成しの生活を送っていたのでしょう。

キリスト者が本当の意味でクリスチャンになる聖霊の証印を受ける新約時代に突入するための、非常に重要な準備の時間を主は過ごしていた時期でもあったことがわかります。

2つの約束


使徒による働き
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

4節でイエス・キリストは、使徒たちに命じます。何を命じたのかといいますと『エルサレムを離れない』ことと、『父の約束を待つ』ことの2点でした。

命じるという言葉は、ギリシャ語パラゲローです。この言葉は、軍事用語として、上官が合言葉や命令を伝えるという意味で使われる言葉です。それは、信じる者が、主イエス・キリストがみずからが「伝えてくださる」ことを理解し、主の好みを見極めて行動し、主の力に従うという意味があります。単に命じるというよりも、絶対に『エルサレムを離れない』こと、『父の約束を待つ』という2点を外してはいけないと厳命したわけです。

なぜ、弟子たちに厳命したのかといえば、外してはいけない重大な意味があったからであるといえましょう。

エルサレムを離れない

「エルサレム」と聞くと、すぐにイスラエルの首都を思い浮かべるでしょう。ギリシャ語の本文でも「エルサレム」と表記されていると思われるかもしれませんが、実際には本文では「エルサレム」を「ヒエロソリーマ」と表記しています。では、「エルサレム」と訳されている理由は何でしょうか。それは、ヘブライ語の「エルシャライーム」から来ています。

なお、ギリシャ語で「エルサレム」を表現する際には、二通りの表記があります。一つは4節に現れる中性名詞の「ヒエロソリーマ」、もう一つは8節に記されている女性名詞の「ヒエローサレーム」です。

4節に書かれている中性名詞「ヒエロソリーマ」は、ユダヤ人の歴史、文化、宗教的背景、または彼らが歴史的な出来事に関与したとき、または「エルサレム」が神の統治または神の法が支配するという意味で用いられます。ここでは、「エルサレム」が神の都市として、または神の統治の中心として紹介されるときに用いられます。より厳密には、「聖霊降臨前のエルサレム」を意味します。したがって、4節の「エルサレム」は、文字通りの首都を指すと言えます。

一方、8節で用いられている女性名詞「ヒエローサレーム」は、神の民全体が神の住まいとなることを示し、キリストの体(新しいエルサレム)を意味する言葉です。

「エルサレム」を離れてはならないという厳命があったのには、理由がありました。「エルサレム」という町の名前は「神の平和」を意味しますが、イエス・キリストの十字架が執行されたのを見れば、神の平和とは程遠い、悪の巣窟に成り果てていました。そうした現状を回復するために、使徒たちは遣わされました。この文章は、その点を明確に伝えています。

「エルサレムは、ファリサイ派を指導者とするイエスに対する陰謀の本部である。 私たちはすでに、ヘロデ派がファリサイ派と結び付き、イエスを死刑にしようとするのを見ている(マコ3:6=マタイ12:14=ルカ6:11)。 間もなくイエスは弟子たちに、サドカイ派に対しても警告を発せられる(マタイ16:6)

A.T.ロバートソン 

神は、罪により死んだ町エルサレムを、イエス・キリストの復活によって再生する舞台として選び、その町を回復させるために使徒たちを派遣しました。

イエス・キリストが死んでまだ間もない時期、そしてユダヤ教の指導者による弾圧や捕縛の可能性が残る中で、イエス・キリストはエルサレムに戻るよう命じました。危険が残る場所になぜ戻らなければならなかったのでしょうか。

さらに、4節には、「エルサレムを離れないで」とあります。ここで「離れる」と訳される「コリゾー」という言葉は、「パートナーを見捨て、離婚や再婚をする自由を残す」という意味があります。詳しく訳すと、「神の都であるエルサレムを切り離さない」ということになります。

弟子たちからすれば、エルサレムに戻ることは危険であり、まだ時期尚早という認識だったでしょう。しかし、イエス・キリストはそうした弟子たちの思いを理解した上で、エルサレムに戻ることを命じました。ここには重要な意味がありました。

先ほども紹介した通り、エルサレムは神の平和の町という意味から遠ざかり、現在では祭司長、パリサイ人、律法学者、ローマ帝国の総督などの支配者が群雄割拠する状態にあります。船頭多くして船山に上るといった状態で、しかも、神の約束を伝えに来たイエス・キリストを十字架で殺害し、好き勝手に振る舞っていました。しかし、そのような悪意や陰謀が渦巻くイスラエルの首都エルサレムを神は見捨てていませんでした。これが、「コリゾー」という言葉の示す意味でした。

「コリゾー」とは、エルサレムに愛する使徒たちを送るという行為を通して、罪により死んだエルサレムが、その名の通り「神の平和」を実現させるという強い意志が働いていることを示しています。
また同時に、罪ある人間に聖霊が臨み、新生した人間の姿の予型でもあります。ここでは、聖霊の働きを使徒になぞられていることです。

父の約束を待つ

4節での2つ目の言葉として、『父の約束を待ちなさい』という命令があります。『約束』はエパゲリアという言葉ですが、それ神の契約の中心となる言葉であり、同時に、神の遺言でもあります。その約束というのはメシアを通してすべての信者に贖いを与えるというものです。

神の約束には、キリストの贖罪の死による罪の赦しが含まれる。 主はこの救いの約束を、信仰の賜物を通して、ご自身の血潮の中ですべての人に提供される。 この真理は、贖罪史の66の書物全体を通して貫かれている。

J.カルヴァン『教義論』Ⅱ 11章

神の契約に定められた救いの約束は、恵みによって達成されます。 それゆえ、カルヴァンは、さまざまな時代のすべてにおいて、契約の完全な一致を強調しました。その契約の中心は信仰の賜物、つまり『聖霊』を与えるということです。

旧約聖書の預言者ヨエルや主イエス・キリストは、信仰の賜物である聖霊を世の終わりに与えると伝えましたが、この約束こそが、エパゲリアであって、昇天の前にして、イエス・キリストこの契約を待ちなさいと言いました。

ヨエル書
2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

ヨハネによる福音書
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

父の約束の中身ですが、キリストがすべての信者に聖霊のバプテスマを授けることが含まれています。それは 御父の約束を成就するものなのです。

ガラテヤ人への手紙3:14
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

ルカ 24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
ヨハ 14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
Ⅰコリ 12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
エペ 1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。

「父の約束」は、聖霊のバプテスマという奇跡を生み出しました。旧約の時代には、聖霊は預言者や指導者に働きましたが、ペンテコステ以降の新約の時代では、すべてのクリスチャンに聖霊が臨むようになりました。これにより、万人祭司の時代が到来し、現在の新約時代は「教会時代」または聖霊の時代とも呼ばれるようになりました。

教会はペンテコステの日に、聖霊のバプテスマによって設立されました(使徒2:1‐4)。教会は建物ではなく、神の宮であり、聖霊によって建てられていきます(エペソ2:22)。そして、「一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(Ⅰコリント12:13)とあるように、聖霊と信者との交わりだけでなく、信者相互間でも御霊による交わりを持つことができるようになりました。これは旧約聖書で預言されたことが、一つ一つ成就していく大きな発展を示しています(エペソ4:1‐6、ピリピ2:1-2)。

弟子たちは、旧約時代から新約の時代への橋渡しを受け継ぎ、その中には、聖霊の関わりが変革するという神の計画が含まれていました。

神の壮大な計画は、私たちが完全に理解することは難しいものです。6節を見ると、使徒たちも、主イエスが彼らに語った神の計画を完全には理解していなかったと思われます。そのため彼らは、「主よ、今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねました。

しかし、主イエスは彼らに対して、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と答えました。

使徒たちは、イスラエルの回復がいつ起こるのかという時期に関心を持っていましたが、主イエスは、そのことがいつ起こるのかということ以上に、聖霊が臨むことと、神がお定めになっている時があることを使徒たちに求めました。

私たちも使徒たちと共通した課題は何でしょうか。それは、その教えを待ち、受け入れる忍耐です。今や、世の終わりは近く、いつこの時代が閉じられてもおかしくない終わりの時代を迎えていることです。
主の再臨が近いこの現代におきまして、私たちは、自分の身をわきまえず、あれこれと再臨がいつであるのか、ないのかと果てしない論議を繰り返すことが多いものですが、ここでも主は、主の御心をあれこれと詮索すること以上に、神の約束を待つことを望んでいます。私たちは、この教えを心に留め、神の約束を待つことの重要性を常に覚えておくべきです。

力を受ける


使徒による働き
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

こうして、主イエス・キリストは、昇天する前に使徒たちに一つの言葉を残して天に昇られます。ここで重要な言葉は、『力』です。聖霊が臨まれる約束と、それに伴う『力』を主は語ります。

その『力』とはディナミスという言葉になります。それは単なる力ではありません。英語の 「ダイナマイト 」の語源であり、神の能力の爆発力を表す言葉です。 しかし、私たちは、神が与えてくださる信仰を離れては、「ダイナマイトのようになる 」能力を持ちあわせません。

ディナミスは、「神の能力による力」を意味し、クリスチャンが聖化の中で成長し、天の御国に備えるために、人生のあらゆる場面で必要とされるものです。 新約聖書中120回も使われていることから非常に重要な言葉になります。さらに、神によって可能にされること、すなわち、神が指示されたとおりに行えるように、神の能力によって力を与えられることを意味します。つまり、聖霊に満たされることによって付与される力を指します。

「奇跡的でないキリスト教を求める心は、キリスト教から単なる 「宗教 」へと回帰する過程にある心である」。

C. C.S.ルイス

神の力は、信仰を通して神を優先することによってもたらされるものです。 神は私たちに『力』を与え続けることを喜ばれるお方です。 私たちは、神が与えてくださる人生の課題に取り組むことによってのみ、神の力の全てを知ることができるのです。 そうして、主は私たちが人生のあらゆる場面で等しく、永遠の意味を持つように力を与えてくださるのです。これが神の御心であることです。

ルカによる福音書
17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

この神の『力』を付与されて、キリストの証人となるのです。これが聖霊のバプテスマを受けた私たちの力であるのです。

エルサレムから新しいエルサレムに新生させる力

このダイナミックな力が一体どこへ向かうのかは、8節の「エルサレム」という言葉の中にあります。エルサレムはギリシャ語で2つの種類があることを述べました。

「ヒエロソリーマ」は、地理的・歴史的なエルサレムを示す言葉です。しかし、その地理的、歴史的なエルサレムは、人間の欲望と罪によって汚され、「神の平和」から遠ざかり、人間の混乱の場となっていました。

そこに、聖霊が降臨することによって、エルサレムは「ヒエロソリーマ」(新しいエルサレム)へと新生を遂げます。8節にあるエルサレム(「ヒエローサレーム」)の意味は、神の民全体が神の住まいとなること、つまり、キリストの体を意味します。

このエルサレムの名前が変わることの意味は、何を意味するのかと言いますと、神の力と聖霊のバプテスマを通じて、私たちはクリスチャンとなり、キリストの証人となります。この力は、私たちが遣わされている場所、たとえそれが悪の巣窟であったとしても、その場を新生させ、聖化する力をもたらすことを意味します。

エルサレムは、地理的・歴史的な存在だけでなく、神の聖霊が注がれ、神の民全体が神の住まいとなる、キリストの体(新しいエルサレム)を象徴します。

私たちは、この世に存在し、主を信じる人が誰もいない職場や学校に遣わされていきますが、そうした場所に聖霊とともに遣わされていることを覚えておくべきです。私たちの存在によって、遣わされている場所が聖化され、真の平和の町へと変わることが可能です。

これは、神の力と聖霊の働きを通じて、私たちが神の愛と恵みをこの世に広める使命を果たすことを強調しています。神の恵みが皆様と共にありますように。アーメン。

日々の暮らしのなかで


  1. 神の約束を待ちましょう
     私たちは日々の生活の中で、さまざまな困難や挑戦に直面します。しかし、主イエス・キリストが使徒たちに語ったように、私たちは神の約束を信じ、待つことが求められます。神の時は完全であり、私たちが理解できないことも多いですが、神の約束は必ず成就します。だからこそ、私たちは神の約束を信じ、待つことを忘れずに日々の生活を送るべきです。

  2. 神の力を豊かに受けましょう
    私たちは自分自身の力だけでは限界があります。しかし、聖霊が私たちの上に臨むとき、私たちは神の力を受けます。この力は、私たちが遣わされている場所を新生させ、聖められる力をもたらします。だからこそ、私たちは神の力を信じ、受け入れることを忘れずに日々の生活を送りましょう。

  3. キリストの証人となりましょう
    私たちはこの世にあって、主を信じる人がほとんどいない職場や学校に遣わされています。しかし、私たちは聖霊とともに遣わされていることを覚えておくべきです。私たちの存在によって、遣わされている場所が聖められ、真の平和へと変わることが可能です。だからこそ、私たちはキリストの証人となり、神の愛と恵みをこの世に広める使命を果たす器として用いられてくように、自分の人生を主に委ねていきましょう。