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行き暮れて・・・亡き後に姿を見せた平忠度

行(ゆき)暮れて 木(こ)の下陰(したかげ)を 
宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)ならまし

平忠度(たいらのただのり、平清盛の母親違いの弟、1144-1184年)の辞世の歌である。この歌を口ずさむたびに、私はいつも、子供の頃に味わった記憶がよみがえる。

家の周りは田畑が広がっていた。
いつも何キロも歩いていた。家に到着する前に暗くなることもあった。
この時の寂しさは今も覚えている。
暗闇のなか、他人の家の明かりが見えた。明るく光る窓には家族だんらんの姿が映っていた。しかし自分は夜道を一人で歩いた。
こんなシーンがよみがえるのである。

この歌を、人生に喩えることもできよう。

人生の目的と決めていたことに、なかなか到達できない。
到達する前に老いてきた。
疲れ果てた。もう諦めよう。俺の人生なんてこんなもんだ。
そして、すべてを投げるように立ち止まった。
すると花が咲いていた。
自分は前ばかり向いて闇雲に走ってきた。しかし、実は周りが見えていなかっただけだ。本当の幸せは立ち止まってようやく見えるのだ。

忠度の最期

しかし、忠度がこの歌を詠んだ時の心境は、上のどれとも違ったと思う。忠度は、戦場に赴く前に死を覚悟した。そして一の谷の合戦に赴いた。右手が斬り落された。すると、敵の六弥太を左手で投げ、心を決めて、西に向かって念仏を唱えた。「光明遍照、十方世界念仏衆生、摂取不捨」と唱えた時、六弥太が首を打ち落とした。

しかし忠度は、死の刹那、桜を見たに違いない。
桜を最期に見ると決めていたはずだ。そして、その美しさに心を奪われたはずだ。このような優雅な死に方を貫こうと決めていたと私は思う。辞世の和歌は、その決意を表明したものに違いない。

忠度の都落ち


「おごれる平家は久しからず」。これだけ聞けば、平家は驕り、退廃して、人心を失った挙句、源氏に滅ぼされたというイメージを人に与える。

しかし、忠度には驕っていたイメージがまったくない。むしろ文武両道で優雅なイメージがある。

忠度が最も知られているのは平家物語の「都落ち」の場面だろう。平家の命運が傾き、死地の戦場に向かう日、歌の師匠である藤原俊成の屋敷を訪ね、自分の歌を収めた巻物を託した。そして、俊成が編纂している勅撰和歌集に載せていただきたいと頼んだ。

しかし忠度は朝敵となってしまったため、『千載和歌集』にはわずか一首、しかも「詠み人知らず」として掲載された。和歌を愛し抜いた忠度には冷たい仕打ちであった。

忠度は神戸の一の谷の合戦で戦死した。
この時、箙に括り付けられていた紙に、上の辞世が書かれていた。

忠度ゆかりの地


明石市人丸前の「腕塚神社」。山陽電車の高架沿いにある。

忠度が戦死した一の谷周辺にはゆかりの地が残る。それも首塚や腕塚というようにいくつもあるのが不思議だ。

明石市の山陽電車「人丸前」駅から歩いてすぐのところに、忠度の右腕を埋めた腕塚神社がある。こじんまりとしているが丁寧に整備され、近隣住民に大事にされてきたことが伝わる。最近建てられた小さな碑には「祭紙 正四位下 薩摩守 平忠度朝臣」とある。

「忠度塚」(明石市人丸前)日差しが明るい住宅街の中にある。

国道2号線を渡ると忠度塚がある。ここは遺体が葬られたという。いつも供花が絶えない。
さらに少し西に歩くと忠度公園がある。

腕塚堂(神戸市長田区)本当にここにあるのか?と疑いたくなるような場所にあった。
忠度卿の「御廟所」とある。
立派な多宝塔。こんなところになぜ?周りの人に話を聞きたかったが、誰もいなかった。
お話を聞かせてくれる人、ぜひお声がけください!

神戸市長田区の地下鉄駒ヶ林駅付近にも、やはり腕塚と胴塚がある。史跡として奉られているのではなく、住宅街の中に埋め込まれており、いかに愛されてきたかが痛感される。

胴塚(首塚)。神戸市長田区野田町8丁目5-1。こちらはまだ道に面しているので見つけやすい。
胴塚(首塚)。前に古い墓石がいくつかあった。やはり平家の戦死者の墓なのだろうか・・

能「忠度」

 能はある意味で非常に便利だ。なぜならば、死人の気持ちが可視化されるからである。
この物語のワキは、忠度の歌の師匠であった俊成の息子の定家に仕える僧である。西国行脚の途中に須磨に立ち寄ると、老人の樵夫が現れた。僧が一夜の宿を請うと、「うたてやな この花の蔭ほどのお宿の候ふべきか」と、花の蔭以上の場所はないという。僧はこれを聞き、おそらく冗談を込めて、「ではこの宿の主人は誰か」と尋ねた。すると樵夫は上の和歌をうたった。そして「詠めし人はこの苔の下」と言った。樵夫は忠度の亡霊だった。

 その後、僧の夢に忠度の亡霊が出てきた。そして、千載集に「読人知らずと書かれしこと、妄執のなかの第一たり」と言った。亡霊となって出てきたのは、せっかく自分の和歌が掲載されたのに、名前が伏せられているからであった。そこで、僧に対して、作者の名前を出すことを定家にお願いして欲しいと言う。
 最後に、「花は根に帰るなり、我が跡弔ひてたびたまえ、木陰を旅の宿とせば、花こそ主なりけれ」と言って、自分こそがこの花の下に眠っている忠度だと明かす。そして弔って欲しいとねがう。花の宿の主は忠度自身であった。

 最後まで美学を貫き通した忠度であったからこそ、千載和歌集に自分の歌が「詠み人知らず」となっていたのに我慢ならなかったのであろう。しかし、考えてみれば、忠度は、人を恨んだり憎んではいない。自分の運命を嘆いたりもしていない。ただ、千載和歌集に自分の名前が載っていないことで、この世に心が残っていたのである。死んでもなお優雅であった。
平家物語のあまりにも有名な冒頭の部分に「猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。」と無常を説く箇所がある。忠度は見事に無常を生きた。だからであろう、今も多くの人に愛されているのは。


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