36年前のJAL123便墜落事故をテレビ特集で見て思い出した父のこと

数日前、久しぶりにJAL123便の墜落事故の特集がテレビ(ザ・仰天ニュース)でやっていた。

墜落したのは1985年8月12日。阪神の日本一と同じ年なので覚えている。JAL123便は、午後6時12分に羽田空港を離陸して伊丹空港を目指した。

この時、私の父は東京に出張中で、この日に帰ってくる予定だった。
私は小学校6年生だった。夏休みで家にいた。昼過ぎに父から電話がかかってきて、「飛行機に乗るから今日中に家に帰る。JALの123便に乗るから」と言った。

123と覚えやすかったので、私は母に「お父さんが123便に乗るって」と伝えたのを覚えている。

そして夕方頃、テレビが緊急ニュースで「JAL123便が上空で行方不明になった」と伝えた。「あれ、123便ってお父さんが乗ってる飛行機では?」となり、母の顔から血の気が引いたのがわかった。

その時、父から電話が鳴ってきた。「羽田空港までタクシーに乗ったけど、渋滞に巻き込まれて遅れた」と話した。空港には常にギリギリに到着するヒドイ親父だったことが、この時だけは幸いした。

母や私たちは「123便に乗らんかったの?今テレビで123便が行方不明と言っている!」と伝えた。父はニュースを知らなかった。「大丈夫、飛行機が落ちても。なにがあっても、わしは必ず帰るから何も心配するな」と言った。そして、次の便に乗ると言ってきたが、絶対に飛行機に乗らずに新幹線で帰って来てと訴えた。その日の夜遅く新幹線で帰って来た。

私たちが子供の頃、父はほとんど家にいなかった。いつも海外を行ったり来たりで、危険な目にもたくさんあってきたようだ。父がいなくても、母は必ず父の夕食を準備した。私たちに父の存在を伝えるためであり、もし父が死んでも子供に悟られないためでもあった。以前、母に聞いた。

それにしても、「大丈夫、飛行機が落ちてもなにがあってもわしは必ず帰るから何も心配するな」とは今の私には言えない。「もし俺が死んだらどうする?」とはよく言う。今にして思えば、何があろうとも家族や人に心配かけないとする態度は立派だと思う。

そんな親父もこの世を去ってすでに20年以上が経った。
その後も飛行機事故はしばしば発生している。JAL123便の犠牲者の方の冥福を改めてお祈り申し上げたい。決して他人事ではないのだから。

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